昭和46年6月、虫プロダクションの取締役社長を辞した 手塚 治虫は、作家、手塚 治虫、個人として漫画の原稿料から、莫大な資金を、虫プロダクションへ投資しておりました。その権利は、すべて放棄いたしました。昭和48年8月虫プロ商事倒産、11月には虫プロダクションも、倒産、莫大な借金を背負うことになった,手塚治虫は、そのことにより、抵当に入っていた、住み慣れた、私邸は明け渡さなくては、ならなくなりました。老後家を建てて、住むのだと言っていた、まこちゃんが通っていた、南光幼稚園近くの、500坪の土地も手放しました。昭和39年3月 住み慣れた富士見台のお屋敷を、離れなければならなくなりました。 引越し業者に頼んだ引越しは、寂しいもので、お手伝いしたり、見送たりする人も少なかったです。引越し先は、杉並区下井草の一軒家の借家でした。
 お母様の 文子さんが、この引越しには、とてもお力を落としになり、母親思いの、手塚先生は、大変心を痛めておりました。お母様は、外出もまったくしなくなり、あんなに、可愛がっていた社員たちとも会おうとしませんでした。私たちの、バンドは、顧問同然に、お世話をいただいておりました。練習場所に困った時、清瀬の水野英子先生の、お屋敷で、練習できるよう、交渉していただいたのも、お母様でした。あんなにうるさい中、練習を見守っても下さいました。 とても可愛がっていた、リードギターの牛越君や、リードボーカルの木口君などが行っても、あって貰えなかったのでした。 越後屋の手塚プロへ遊びに行った時に、手塚先生から、そのことをお聞きし、私も会いに行きました。玄関で会うことが出来ました。「どうして誰とも、お会いになろうとしないのですか」と、お尋ねしたところ、「恥ずかしいから」とのお答えでした。自分の無力な事、手塚 治虫先生の、お力になれなかった事など、大変悔やまれました。失業者の私には、4月からの、職業訓練校での、新しい世界が待っているはずの、そんな時でした。
 手塚 治虫の邸宅が壊され、更地にされ、建売の家が建ちました。何度かその様子を見に行きましたが、歴史的な建物です、手塚 治虫を語るには、必要な建物でしょう。何とか、残して欲しい、その願いは、虚しいものでした。-今なら何とかなったかもしれませんねー
 第2スタジオで、何とか虫プロダクションを、立て直そうと、伊藤さんを、中心に、虫プロダクション組合として、仕上の人たちが外注をして、がんばっておりました。今の虫プロダクション株式会社です。その甲斐あって、今も第一スタジオ、が残っております。明日の生活にも困るような中で、今の、伊藤社長を、中心にして、血のにじむような努力をかさね、虫プロダクションの、名前を残してくれた方々は、われわれ、虫プロOBとしては、誇りであり、英雄であります。その努力の、数々は、とても文章などでは、語り尽くせるものではありません。



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