そのごの 手塚 治虫
The Later Osamu Tezuka
그 후의 데즈카 오사무
此后 手冢治虫
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1983年 (昭和58年)1月15日 東京都東久留米市の成人式での講演

 1月 4日 手塚 治虫の良き理解者、母文子様がお亡くなりになりました。 昭和54年やっと、借家住まいから、東久留米小山野邸宅に引っ越されて、これから、親孝行を、と思っていた、早すぎる、別れでした。
 約束は守らなければ、人一倍、信念を持っていた、手塚 治虫でした、写真を見てください、すっかりやつれておりますが、作品と同じで、けして、手抜きなどせず、熱弁を奮っておられる事が、お分かりいただけるとおもいます。
 私は、余暇にボランティアをしておりました。この当時の成人式は、たくさんの、ボランティア団体が、数ヶ月前から会合を開き、アイディアを出し合い、力をあわせ、市の協力を得て、毎年開いておりました。現在では、市が開いておりますが、当時とても有意義な、成人式を、開くことが出来ました。
 私は、手話通訳を、手話サークルの何人かと、担当し、手塚 治虫の手話通訳を、担当する栄誉を得ました。(東久留米中央公民館のこけら落としの時のゲスト講演、黒柳 徹子さんの手話通訳も私とサークルの女性2人で担当いたしました)
 会場には、友人 須崎さんが運転する、お車で、2人だけでお出でになりました。
手塚先生とは長くお話は出来ませんでしたが、ふしぎなメルモや、海のトリトン、そして、あの忌まわしい事件の事は、どうしても、出てしまいました。

祝辞など左手話通訳者 講演が始まりました お母様の文子様が
1月4日にお亡くなり やつれていました 漫画を画いての説明
講演にも熱をおび 演台の前に出て ブラック・ジャック
閉めはやはり 鉄腕アトム レオ
最後に こんな言葉を残していった。
手塚先生は、私と会った事で、海のトリトンでの、辛く、苦しく、悔しい言語に絶する体験 を思い出されたようでした、講演会の最後に、このような、言葉を書かれました。会場に来ていた、新成人たちに、手塚 治虫の、真意が伝わったかどうか分かりません。いや、誰も解らなかったかも知れません。理解できなかったでしょう。理解できたのは、私だけかも知れません。
 成人式発祥の地はどこだか知っておりますか?
それは埼玉県の蕨市です。私が育った、隣の市です。蕨という字を、私は書けます、私が通った高校が蕨高校なので、当たり前ですよね。
 この日本で一番小さな市が「成人式」の発祥の地     あまり知られていませんでした。
敗戦の翌年、昭和21年11月22日 蕨市で 「成年(なるねん)式」 が開催されました。この催しが、国会で 「全国的に広めようではないか」と
小正月の一月一五日を 「成人式」と決め 昭和23年7月「 国民の祝日に関する法律」を公布、施行したのでした。
 敗戦後で日本全体が、虚脱状態で、人の心も、荒廃しておりました。日本を立ち直らせるためには、若い世代の奮起しかない、若者におとなの自覚を植え付けよう。二十歳の若者を集め、「けじめ」の行事を!。蕨の青年団の人たちは、昔の元服の式 それに習った、「成年式」を、行ったのでした。
 そのことを記念して、昭和54年、蕨市城址公園に、 記念像が立てられました。
昭和58年の成人式で、手塚 治虫先生とお会いすることが出来ました。そして手話通訳をしました。
このページの写真はの、何枚かは、東久留米市の、市報や広報などに、使われておるのを見てました。
わたしは、手話通訳をしたので、手塚先生の写真を取ることが出来ませんでした、それと手話通訳をしている、わたしの写真も探しておりました。
 今回 東久留米市役所のご協力。広報課の皆様のお力添えで、発行物の、責任者の方を探して、連絡を取っていただきました。その結果、写真の出所が、広報課の資料から、と言うことが、判明し、甚大資料から、なネガを探し出していただき、お借り出来て、公開することが出来ました。
東久留米市役所、また 広報課の皆様には、お礼の述べようもありません。 心から、御礼申し上げます。
東久留米市広報誌 座談会に 手塚 治虫先生の事が
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