|
ある街角の物語 38分 カラー ワイド |
1992年11月5日虫プロダクション作品発表会公開 |
1963年第17回毎日映画コンクール |
第1回大藤信郎賞 |
1963年第17回 芸術祭奨励賞 |
1963年第13回ブルーリボン教育文化映画賞 |
|
携わった人たち |
手塚 治虫 |
ある街角の物語 原案 構成 制作 |
山本 暎一 |
ある街角の物語 演出 作画 編集 |
坂本 雄作 |
ある街角の物語 演出 作画 |
高井 達雄 |
ある街角の物語 音楽 |
新井 亮 |
ある街角の物語 美術 |
紺野 修司 |
ある街角の物語 作画 |
杉井 儀三郎 |
ある街角の物語 作画 |
石井 元明 |
ある街角の物語 作画 |
中村 和子 |
ある街角の物語 作画 |
林 重行 |
ある街角の物語 作画 |
山本 繁 |
ある街角の物語 作画 |
桜井 百合緒 |
ある街角の物語 作画 |
野木 行雄 |
ある街角の物語 作画 |
沼本 清海 |
ある街角の物語 作画 |
三浦 津菜子 |
ある街角の物語 作画 |
光山 勝治 |
ある街角の物語 作画 |
白川 成子 |
ある街角の物語 仕上 |
松本 和子 |
ある街角の物語 仕上 |
渡辺 千津子 |
ある街角の物語 仕上 |
進藤 八重子 |
ある街角の物語 仕上 |
大野 静子 |
ある街角の物語 仕上 |
鶴田 淑子 |
ある街角の物語 仕上 |
松本 節子 |
ある街角の物語 仕上 |
松本 双葉 |
ある街角の物語 仕上 |
大内 充子 |
ある街角の物語 仕上 |
半藤 克美 |
ある街角の物語 背景 |
大脇 章子 |
ある街角の物語 背景 |
広川 和行 |
ある街角の物語 撮影 |
佐倉 紀行 |
ある街角の物語 撮影 |
太田 千里 |
ある街角の物語 録音 |
宮本 隆 |
ある街角の物語 録音 |
川畑 栄一 |
ある街角の物語 進行 |
今井 義章 |
ある街角の物語 事務 手塚治虫マネージャー後 専務 |
秋山 記久恵 |
ある街角の物語 事務 |
など そのほかたくさんのひとたち。
ストーリー
ヨーロッパのある街角 屋根裏部屋の貧しい一家の小さな女の子(映画「アンネの日記」が思い浮かんだのは私だけであろうか?)が大切にしていたクマのぬいぐるみを窓から落とし屋根のといに落ちて引っかかってしまう、誰にも取れない、少女はドロップを投げてあげる。(貧しさと食糧難でのひもじさが戦後派には思い出されるシーン)その屋根裏部屋に住む 子だくさんなねずみの親子、 イタズラな子ねずみとぬいぐるみの出会いそして 切れかけた街灯とちんぴらふうの蛾 子孫を残すため種を風に乗せて一生懸命飛ばす街の並木のプラタナス へとストーリーは流れ ポスタの青年バイオリニストと少女のピアニストの淡い恋へと話は進む しかし突然戦渦がおとずれ街中に張られる独裁者のポスター容赦なく恋人どうしの2人の上にも張られる。やがて戦火が訪れ燃え上がるポスターそのポスターの下からポスターの恋人たちは燃え上がり宙に舞い抱き合っておどりながら消えていく。
最後の焼け野原の街を日本初の5段マルチを使っている。
音楽が良くて、ストーリーも良い 始めて見た時の感動は忘れられない作品。
|
昭和35年 横山 隆一先生の おとぎプロを辞めた 山本 暎一は手塚 治虫のもとを訪ねた
なぜおとぎプロを辞めたかの問いに
「おとぎプロは芸術性を求めている、多くの人に見てもらえる作品が作りたい」
というようなことを答えた。
「でも、芸術性は大切です、僕がアニメを作るのも、実験アニメを作りたいからで、それを止めたら、作家ではなくなる」
と答えられた、山本は落胆したという、しかし
「アニメはお金が掛かります、だから大衆娯楽の漫画映画も作ってその利益で、実験アニメを作りたいのです」
という手塚 治虫の話に、 思わず山本は
「僕を雇ってください」と、頼んでしまった。
「来年、動画部を作りたいと思っています、その時には連絡しますので、待っていてください」
と言われ、山本は、
「必ず、連絡してくださいね、と念を押してその座を辞したと言う。
そして6月手塚から「スグレンラクコウテツカ」の電報をもらうまで、失業保険とCM会社で何とか生活をして待っていたのであった。 |
医者になる大学を卒業しておきながらいまだ学位をとっていないと言う思いと祖先が医者であったと言う想いが、不完全燃焼として、手塚治虫の心にくすぶり続けていた。奈良医大に籍を置いていたのにもいつかは学位を取りたいと思っていたからであった。
友人の田仲博章氏を通じて安登 権八郎教授に自分のもとで学位をとるようにと誘われた、研究テーマはタニシの精虫の研究であった。顕微鏡での拡大図の制作に取り掛かっていた。学位を取るなどとは手塚の多忙からは、狂気の沙汰であったが奈良医大からの連絡だけは必ずきちんとつけていた。
昭和36年1月19日 ついに医学博士の学位を手にした。名実ともに医者となったが、その肩書きを使うことは無かった。 |
ある日、高校を出たばかりの少年が手塚邸を訪ねてきた、「何でもやりますから助手として使ってください」と頼んできた。今井さんがなんと言っても、頑として譲らない、玄関に座り込んで、助手としておいてくれるまで動かないと言う、仕方なしに置いたが、かなり、頑固と言う印象であった、広川 和行であった。 |
坂本雄作という青年が、手塚治虫を訪ねてきた。
東映動画のアニメーター 「白蛇伝」などのあとCM班で不二家のペコちゃんのCMを制作していた。
東映動画では組合ができ、漫画映画を作るのもまるで工場で生産しているような雰囲気であった。チャップリンの映画ではないが、まるで歯車の一部、笑えなかった。
手塚治虫がアニメをする、と言う噂を聞きつけ会いに来た。
一緒にアニメをやりましょう」の手塚治虫の誘いに
「お願いします」
と一も二も無く答えていた。
「お願いがあるのですが、広川 和行と言うちょっと癖のある男ですが、助手として、使ってもらえないでしょうか」
と、広川 和行のことをたのんだ。のちに彼は撮影でその手腕を発揮した。
給料は3万と決まったが東映でも初任給は1万3千円その後「一万三千八百円」と言う流行歌が流行ったが、大学出の初任給がそうなるのには、まだ時間のかかる時代、かなりの驚きに値する金額であった。 |
昭和36年6月 手塚治虫プロダクション 動画部 設立
作業が始まる
作画班で玄関真上の2階の部屋(後には手塚治虫原稿などの資料室)
坂本雄作(芸大出東映動画)動画部チーフ 屋根裏部屋の少女、ネズミ担当
山本暎一(おとぎプロ) 動画部サブ プラタナス ランプ
撮影広川和行 仕上渡辺千津子はガレージ上の部屋 |
7月
紺野 修司(坂本紹介芸大出東映動画)作画 ポスターの青年バイオリンにスト少女ピアニスト
新井 亮 (紺野紹介芸大出東映動画)キャラクターデザイン |
8月
杉井 儀三郎 (東映動画) 蛾
野球部を作る (ガンマーズ)
北野英明がキャッチャー当時手塚治虫のアシスタント |
9月虫プロのスタジオ建設が始まる
虫プロダクションの名称も決まる。スタッフは15人になる。
撮影室 庭の物置 |
12月28日 仕事納め 忘年会 |
昭和37年 2月 坂本事件
虫プロダクションを映画部とテレビ部に別ける |
3月新人を新聞広告で募集
履歴書で字の下手な人を落としたり、面接で美人を入れたりしたのは有名な話。 10人が決まる。 |
4月スタジオが完成
1階は事務室、予備室、トイレなど
2階は大部屋で、作画、仕上、背景、
撮影は庭の物置がそのまま使われた。 |
5月 広告代理店の萬年社の穴見さんと会合 |
9月作画作業、仕上作業、背景作業、撮影作業、編集作業など終了
音楽を高井達雄、効果を ラジオ効果音制作グループに依頼 |
11月 6日銀座ヤマハホールで「虫プロダクション第1回作品発表会」で
鉄腕アトム第一話第二話とともに発表。 |
|
|
|
|
|
|
|
Copyright C2004Mcs Inc. All Rights Reserved |