前に、「のびたがおけ(洗面器)を持っていてそれをドラえもんが受け取っている?ようなセル画があります、 いったい何なんでしょうか」 にお答えします。私がこのドラえもんのホームページを開く前、日本テレビのドラえもんのセル画と言うと、このセル画だけしかなく、これがドラえもんの唯一のセル画として、有名?だった、下のようなセル画像のことだと思いますが、 多分このことかと思いますので、私の私見を述べたいと思います。
 まえにも掲示板に書きましたが、放送で使用したセル画や背景は、ドラえもん最後の日で書いてあるように、全て燃やして処分してしまいました。 ですから放送で使用したものは、私が持っているもの以外は、ほとんどは残ってはおりません。 
 絵を見るとキャラクターが全く違い、撮影には当然使用できない、出来損ないの絵です。おもしろいのは、色指定は間違っていないようですので、考えられるのは、仕上げ関係の人で、外注さんあたりの人が、面白半分に作成したと思われます、また絵の幼稚さから見ても、作画を担当した者が、書いたとは、思えません。 
 こんな絵を見れば、ドラえもんが駄作だったと、言われてしまいますね。
そんな、間違った情報を、正していくのも、私の使命だと思っております。
 では、詳しく説明いたします。
 良く見てください、ドラえもんの鼻の形が違いますね

右のキャラクターやドラえもんのキャラクター集で見くらべてみて下さい。
のび太くんのキャラクターも全く違っていることが, 見くらべて見ると、素人にも判りますね。
 横向きキャラクターの絵は作画の人はあまり描きたがりませんでした。また拡大して調べてみると トレス線が綺麗で トレスマシンを使用したトレス線では無いことが判ります、線も均一なので、かなりのベテランのトレスを経験した人が、トレスして書いて、彩色していることが判ります、このようなわけで作画の人が書いた、「正規の絵ではない、」ことがわかりますね。
以上のことから、このセル画は、日本テレビ動画で使用したセルではありません。

ドラえもんの時にビデオテープレコーダーはなかったのですか という質問へのお答え

ビデオテープレコーダー
と言えばやはり日本で開発したのはソニーである。ソニーの創業者 盛田昭夫[もりたあきお]氏 (1921〜1999)は大正10年1月生まれ昭和19年大阪帝国大学理学部物理学科を卒業している大阪帝国大学と言えば手塚治虫と同じ大学と言うことで前からソニーには興味を持っていた。井深大[いぶかまさる]  (1908〜1997) 社長とソニーを作り上げたそんな経緯からソニーのことも少し勉強したので 分かる範囲でお答えしたいと思います 。
1958年ソニーは我が国初のVTR(ビデオテープレコーダー)を米アンペックス社の回転ヘッド方式で完成させた、井深大社長は世の中の人が普段の生活で使えるようなVTRの小型化をトランジスタを使って実現せよと、木原(きはら のぶとし)主任研究員VTR開発チームにハッパをかけた。
1959年11月、アンペックス方式でVTRのトランジスタ化に成功、ある程度小型化のメドがつく。
1960年、ソニーとアンペックス間で、VTRの技術的ノウハウの交換を行う。アンペックス方式では限界があった。それは4ヘッドのVTRのためヘッドが摩耗すると、回転ヘッド全体の交換が必要となった。
ヘッド交換の容易なVTRを作るというソニー独自の着想により、2ヘッドのトランジスタVTRの開発を進めていく。
こうして出来上がったのが、世界初のトランジスタ式「VTRSV-201型」だった。
このVTRは、2ヘッドのヘリカルスキャン(テープ上を、ヘッドが、らせん状に走行しながら 記録/再生するというもの。現在のVTRはこの方式である)タイプで、当時のVTRの水準をはるかに上回る高性能機であった。
 VTRSV-201型と
木原主任研究員
しかしアンペックス方式とは異なるため、放送局用としてはあまり受け入れられる方式ではなかった。
また家庭用としては高価で大き過ぎた、そこで、「PV-100型」を開発した大きさは、放送局のアンペックス製の50分の1と小さくなった。この「PV-100型」は茶だんすくらいの大きさだったがポータブルと名付け、当時としては画期的に小さくなった。
1962年9月に発表され1963年7月に248万円で発売された、
また8月からはアメリカにも業務用で輸出された。
1964年、65年とアメリカン・エア・ライン、パン・アメリカン機に採用された。毎週新しいソフトテープを供給するため、ニューヨークに 「インフライト・VTR・サービス」という、テープのダビング工場ができた。
放送局のVTRが、「PV-100型」により一歩コンスーマー用に近づいたといえる。
この時期のVTRの基礎技術が、ソニーの放送・業務用VTRや家庭用VTRのベータマックスに受け継がれていったのであった。
  PV-100型
1964年10月に発表された家庭用VTR「CV-2000型」は、2分の1インチテープを使った回転2ヘッド方式のVTRで、重さは15kg、価格はこれまで放送局用で2000万円、工業用でも250万円していたが、19万8000円となった。
価格を抑えるためにフィールドスキップという録画方式(テレビ放送画面を1枚おきに記録する)が採用された。

井深大社長は「今回の製品は、人の真似でなくソニーで生まれ、育ち、成長したものです。生活に革命を生む製品をというのが、ソニーの特徴であり、喜びであり、価値です」と、「CV-2000型」の誕生を喜んだ。

 1971年10月(昭和46年)       ソニー、3/4インチ、カラービデオカセット
                        Uマチック"プレーヤー「VP-1100」、
                        Uマチック"レコーダー「VO-1700」発売。
 1973年 9月
                  ソニー、ポータブル・カラービデオレコーダー「AV-8500」発売。
 1974年 3月
                  ソニー、Uマチックおよびトリニコンカラーカメラのフルラインアップ発表。
 1974年10月14日
  私の誕生日にプロ野球、巨人の長嶋茂雄、「巨人軍は永遠に不滅です」との言葉を残し現役引退。
    CV-2000型
 1975年 5月10日 ソニー、本格的な家庭用ビデオシステム"ベータマックス"開発に成功。テレビと組み合わせた"ビデオテレビ"「LV-1801」とビデオデッキ「SL-6300」発売。
私が手塚プロを辞めるときに手塚治虫先生から頂いたCV-2000型はテープの値段も高くて、モノクロでテレビ番組の録画には適さなかった。昭和50年 やっとベータマックスが発売されたが、まだ手の出る値段ではなくそのころはもっぱら8mm撮影機が主流で、生まれた長男を8mm映写機で撮っていた。
 初めてビデオを買ったのは 親父の方が先であった
昭和55年ぐらいに中古でカメラとレコーダーとテレビチューナーのセットを10万ぐらいで手に入れたと思う。その後いくつか買い替え今のベーターはだいぶ古くなっている。時代の流れでVHSに変わりビデオやさんにベーターの作品がなくなる頃にベーターと、ともに使っていて気に入っていた、映画「ウォーゲーム」の中で出ていたVHSと同じ機種で我慢していたのを買い替え買い替えて今では各部屋に1台以上もビデオがある。
 もしもドラえもんの頃ビデオがあったら と本当に思う。
 芸能人トリビア
 芸能人トリビア

メールで依頼があり

電話で応対した。 
画像を使わせてほしいという依頼で私のページから使用した。

                
 あるインタビューから     (抜粋)
「ドラえもん」での真佐美ジュンさんの仕事内容について、改めて詳しく > 教えてください。
日本テレビ動画としての役職は制作主任 下崎 闊です。ドラえもん全体のスケジュール作成管理。スタッフの手配や決定や。外注の選択や決定、単価の交渉など現場の責任者です。初めのころ 佐々木プロデューサーとパイロットを行くっているころは、現場の制作と演出を1人でやっていましたが演出の責任者としてチーフディレクター(総監督)にジョーさん(上梨満雄)を迎え演出助手の和やん(岡迫和之)と腰さん(腰 繁男)を迎えたことで、 充実しましたので演出の真佐美 ジュンは要らなくなり制作として専念しました。
「ドラえもん」のアニメ化企画はどなたの発案ですか?
(ホームページにあるように最初に目をつけたのは佐々木プロデューサーだったのですか?)
なぜ「ドラえもん」をアニメ化しようと思ったのか?

モンシェリーCoCo で渡辺社長、佐々木一雄と知り合いました。 日本テレビ動画ではモンシェリーCoCoの後の自主作品として企画を立てていましたがその中の1つに ドラえもんがありました。ドラえもんの企画に絞ったあたり(私は11月に結婚式を挙げていますが 忙しいのでと新婚旅行もしていません。それがドラえもんの準備のためだと思いますのでこの頃に)佐々やんから企画を打ち明けられま した。確か中野のサンプラザの近くの高級焼肉のお店、お店の人が、お肉を見せてくれて確認すると目の前の鉄板で焼いてくれて、さお後は賽の目にし、一礼して終わる。今までそんな高級なお店に行ったことが無かったので(その後も)味のことより、その儀式みたいな所作を鮮明に今も覚えている。そこで ドラえもんを作りたいとの説明を受けて一緒にやろうではないかと口説かれた。私はアニメの世界に入ってから常に「子供に夢のある作品を」が心情でしたので、そのときに賛同して協力する事を約束しま した。けしてお肉がおいしかったからではありません(笑)。
パイロットフィルムは存在したのですね。そしてその内容は?
 パイロットフィルムの内容は1話とほぼ同じで20分近くありました、1話はそのパイロットをほとんど使用しております、そしてテレビのスポットや宣 伝用にうしろに「4月1日放送開始」のテロップを入れたものをのちには作っております。そのときのラッシュプリントを持っていてホー ムページの1話の画像はそこから取ったものです。
ラッシュプリントと放送のときのプリントはどう違うのですか素人的な質問ですみません。
 ラッシュプリントというのは現像から上がってきたフィルムは撮影した順序のままです。編集の人が絵コンテを見てカットごとに切り刻んで絵コンテの順番(カット番号)の通りに繋ぎ直したもので、動きや絵の傷などを直して(この作業をリテークと言いますが)音響の人に渡して、そのフィルムを見ながら声優さんがアフレコをしたり、音響の人が音楽や擬音をつけたりします。その音のフィルムを現像して音のネガと、フィルムのネガをあわせて焼いてもらったのが放送局へ収める音も入ったフイルムです。私が持っている音の入ったフィルムは、難しいかもしれませんが、焼き方の方法で赤が強いので青を強くする焼き方にしてほしいという、やり直しが出て作り直したときの、そう言う意味でのりテークフィルムです。制作費の関係から、制作責任者のミスとして、その費用は私が負担して、まぁ私も16mm映写機を持っていて記念にフイルムを持っていても良いなぐらいに考えたのだと思いますが、幸運にも手元に残ったわけです。
アニメ化企画が持ち上がる前、真佐美さんは「ドラえもん」という作品の存在はご存知でしたか?
また、どのように思われていましたか?

小学館の学年誌それも低学年(1年〜4年生)でしたので目にふれる事も無くまったく知りませんでした。ドラえもんを一緒に作ろうと佐々やんから 相談を受け、そのとき原作を見たわけですが前にも言ったとおり子供たちに夢を与える作品だったのでどんどんドラえもんで夢が膨らんで行って是非やりたい、実現したいと思いましたよ。
何歳くらいの子供をターゲットとして作られたアニメ作品でしたか?
原作でも小学生低学年を対象としていましたので、小学生全体を対象としました。この頃は漫画映画を中学生や高校生が見ると、中学生にもなってなどと言われてしまう時代でした。大学生が少年サンデーやマガジン、キング、などよ読んでいると、奇異な目で見られた時代でした。
制作にあたって、同時期に放送されていた藤子アニメ作品である「ジャングル黒べえ」は意識することはありましたか?
 同じ時に、おさむチャン(出崎 統さん)がやっておられたのですね、ドラえもんのことでそれどころではなかったのでしょう (笑) でも虫プロの末期のころで、親友のゼンノスケ(網田靖夫)や丸ちゃん(丸山正雄)など大勢のあしたのジ ョーのスタッフがマッドハウスを立ち上げていました。 ドラえもんの作画などを手伝って貰おうと言う下心もあって (笑) 時々阿佐ヶ谷のマッドハウスのスタジオに遊びに行った りしていたのですが、その頃どんな作品をしているのかを聞いたかもしれませんが、ジャングル黒べえの記憶は無く,、まったく気づいてお りませんでした。
ドラえもんの色指定は「藤子不二雄先生に見て選んでいただいた」とのことですが、
当時小学館の小学2年生井川編集長(この人も確かひろしさんだったと思いますが)や小学5年生の坂本副編集長3年生の上野さんなどとお会いしております。 それまでのゲラ(原作者に修正など無いか見てもらうためのためし刷りの様なもの)などをお持ちいただきました。その中のカラーページといっても3色刷のカラーのページを参考に色指定しました。 いろいろと試してみ見ても、結局原作のカラーページの色分けがバランス的にも良いので、赤い色のところは赤の色見本の中から選び、 青いところは青の色見本から選んで何種類も作ってその中から一番良いものを選んで決めていきました。今はそんなことは無いと思いますが、ドラえもんを青くしたために、背景さんがびっくりしました。その上空まで飛んでしまうのですから(笑)
他のキャラクターも藤子先生が監修されたのでしょうか?
 解散したとはいえ、スタジオ0の建物は存在しておりました。編集の西出さんはスタジオ0の2階が作業場のオフィスでした。余談ですが先ごろ連絡いただいた当時の制作進行を担当していた山ちゃん(山下一郎氏)によると作業が深夜に及ぶことがたびたびで帰り道が同じ方向なので吉祥寺の西出さんの自宅まで何度も送ったと思い出を話してくれました。藤子先生もスタジオ0でお仕事をなさっており、お忙しい中初めの頃は下の喫茶店でよく打ち合わせをしたものでした。だんだん忙しくなると会う暇も無くなり会うためには気長に藤子先生があくのを待つしかありませんでした。作品の演出的センスを持っていてなお人当たりがよく辛抱強いということで白羽の矢が立ったのが徳さん(徳丸 正夫)でした。彼が待つのが仕事といわれるほど辛抱強く24時間スタジオ0で待機して脚本からキャラクターなど常に先生の校閲を取ってきてくれました。キャラクター集にあるチンドンヤの絵など藤子不二雄先生の絵ではないことがわかりますが、それらも 了解は取ったはずです。
当時発売されていたグッズにはどのようなものがありましたか?
わたしのドラえもんの掲示板にスポンサー4社を書き込んで知らせていただきました。その通りだったと思い出しました。アニメの世界にいる頃はコーラーが風邪薬の味に似ていて飲むことが出来ませんでした。コーラーが飲めるようになって、コカコーラー派とペプシコーラー派とに分かれましたが、なぜか私はペプシ派でした、てっきり判官贔屓かなと思っておりましたが、ドラえもんのスポンサーだったなんて(笑) 忘れていても、無意識で恩を感じていたのですね。(笑) 地方では いすゞ自動車などもあったみたいです、宮田自転車で子供用のドラえもんの自転車が発売されたかどうか 、任天堂でドラえもんのおもちゃが発売されたかも覚えていませんし後で発売されていたとしても、違う世界(自動車整備士)にいたので気づきませんでした。
ドラえもんが秘密兵器(道具)を出すときには「あ〜らよっ」という掛け声を出していたという話を聞きますが、これは台本に書かれていたものなのでしょう か? それとも冨田耕生さんのアドリブですか?
このことでは前にチーフディレクターのジョーさん(上梨さん)にも電話して聞いてみました。富田さんを選ぶにあたっては 富田さんの江戸っ子かたぎやドタバタ的なところそれに何より富田さんのアドリブに期待したとのこが判りました。このことからも富田さんのアドリブだったと思いますよ。
「ガチャ子」は原作では連載開始して割とすぐに登場したキャラクターですが、 アニメでの初登場は第13話とけっこう遅い時期です。この時期に「ガチャ子」を新登場させた意図はなにかあったのでしょうか?
期待してもらうほどのことではなくて、別に意図は無く、原作で登場したので、その流れで登場させたんだと思いますよ。面白くさせるとかドラえもんに弱みを持たせるとか、徳さんあたりが藤子先生から相談を受けていたなんてことになれば、面白いのでしょうが、聞いてはいません。
原作者である藤子不二雄先生は、制作時に細かく注文されたことなどはありましたか?
ありませんでしたよ。前に説明したように徳さん(徳丸)が先生とのパイプ役でしたが、特に注文があった記憶はありません。こ の件でジョーさんに尋ねて見ましたがやはり記憶にないそうで、それどころかジョーさんは先生に会ったことが無い事が判明してしまいました。(笑)
主題歌は、後に作られるテレビ朝日版に比べると少し暗いイメージの曲ですが、当時としては  どのような狙いがあったのでしょうか?
メルモのときもそうでしたが、この時代作曲家に制作サイドから、後でとやかく言う事はありえませんでした。 藤子不二雄先生の作詞が先で作曲しづらかったのではと(失礼オフレコにしてくださいフアンの方から抗議が来るかも(笑))作曲家の先生の苦労を気にしましたした。 ちなみにその曲を元にジョーさんがオープニングの絵コンテを書きオープニングを作りました。そんな悪い曲ではないでしょう、聞けば聞くほど味が出るというか、 作品の制作が進むにつれて結構みんな仕事中に口ずさんでましたよ。肩をゆすったりして
(まねてみせる笑)
ガナリ先生役の声優さんが途中で変わっていますが、どのような事情があったのでしょうか?
何も聞いていません声優さんの都合だと思いますが詳しくはわかりません、この頃は変わる事は多々ありましたので気にもならなかったのだと思います。大雑把だといわれればその通りですが。
真佐美さんがご自身のサイトで公開しているもの以外に、現在、アニメ 「ドラえもん」についてどのような資料を所有していらっしゃいますか?公開していらっしゃる画像は、セル?フィルムの一部?なのでしょうか?
セルや資料に関して言えば公開しておりますのがすべてで、残っているのはこれだけです。あっジョーさんが 「セルを2枚ぐらい記念に持っていたが邪魔なので兄貴がほしいというのであげた、その後どうなったかはわからない」といっていました。それに音が入っている焼き方のリテークのフィルム題名がわかっているのが潜水艦とお天気ボックスそのほか現像所から上がってきたままのまだ封を切っていないものが2本題名はわかりません。音が入っていないつなぎ目だらけのラッシュフィルムと編集の西出さんがリテークのフィルムをランダムにつないでリールにまいてくれたものなどです。
結果的には黒字だったとのことですが、当時の視聴者の反応・反響はど うでしたか? また、現在のドラえもんのように世界各国で愛される、ある意味「国民的アニメ、化け物アニメ」となる予感はありましたか?
ドラえもんは結果的には黒字だったで、日本テレビ動画が黒字になったわけではありません。私にとっては ドラえもんがテレビのアニメ制作の最後となりました。今と違い視聴者の反応や反響はすぐには現場には 伝わらなかったので、アニメの世界から消えた私には伝わっていませんし今のドラえもんが始まったときにはドラえもんの声優さんが大変良いなと思いヒットはするとは思いましたが、こんなに続くとは常識的に考えてありえません。奇跡でしょうね(笑)あぁ私にとってですよ!わかりません。
多数有る原作ストーリーの中で、どのような基準で話をセレクトしてアニメ化していたのでしょうか?
放送当初は原作はまだ少なくてそのうえ短すぎる話が多く脚本家が足りない話を作ったのもあります。
学年誌では1年かかっても12の話しか出来ませんからね。毎週2話ずつ消化してしまうので先生の原作もすぐ底をついてしまって徳さんも苦労したと思いますよ。
放送当時「ドラえもん」の単行本はまだ発売されていなかったと思われますが、制作にあたっての原作資料はどうやって集めましたか?
前と重複しますが当時の小学館の井川編集長や坂本副編集長3年生の上野さんからゲラ刷り (見本用のためし刷り)をお持ちいただきました逆にそれしかなかったわけです。原作が沢山あったと思われている方が沢山いらっしゃるのですが、本当に少ししかなかったのです。
何故、ジャイアンのかあちゃんが亡くなっているという設定にされたのでしょうか?
原作にあったかは思い出せませんが多分あったのだと思います、ジャイアン、スネ夫は敵役でいじめっ子であっても悪人(悪役)ではなく、のび太の友人 ですたぶん大人になれば親友かもしれません。昔の子供の世界では当たり前にいた、愛するべき子供たちです、子供たちの心は本来優しさにあふれています、ジャイアンの心根は優しい子供なのです、その優しさを紹介するため、母親がその後出てくる予定も無かったのでジャイアンの優しさを表現するためあのような設定 になってしまったと思います。父親の優しさを見れば理解できますよね、
また、その設定にしたことで、原作の話をアニメ化さいにやりにくい点などはありませんでしたか?放送期間が半年間でしたのでまったくありませんでした、でもこのページを作るまでジャイアンの母ちゃんは(母親)太っていて唯一ジャイアンの苦手な母親で怒られるイメージがあったのですが、あれは今のドラえもんだったのですね。
最終回のときには、「またドラえもんを作りたい」と強く思っていらっしゃったようですが、今でも「また作りたい」という気持ちはあったりしますか?
作りたくないといえばうそになります。でも虫プロには約600人以上の社員が存在しました。現在6 0人以上の方が亡くなっている事が判明しております、120人以上の方が所在不明です。私などアニ メ馬鹿があのような仕事の仕方で現在まで続けていたとしたら、間違いなくその中に居たでしょう。

過去に、日本テレビ版「ドラえもん」について取り上げたいので、資料を貸して欲しいという依頼を出版社やテレビ局などから受けたことはありますか?
芸能人トリビアと、特命リサーチのザイオン、声優さんの変更問題からで一社取材がありました。
キャラクターが違っていたり、ドラえもんの身長が違っていたり、テレビ朝日版と日本テレビ版のドラえもんは違うところがけっこうたくさんあるように感じます。原作に最初になじんだ世代から観ると、日本テレビ版のほうが原作のイメージに近いかな?という気もしますが、テレビ朝日版にはない日本テレビ版の魅力について敢えて挙げるなら、どこになりますか?
テレビ朝日版をあまり見ていないので、お答えすることができません。私はこのドラえもんしか知りません。再放送がされていた事すら知りませんでした。ドラえもんについては多くの方が私などよりよほど多くのことを知っていらっしゃいます。当事者に比較しろと言うのが無理で当然身贔屓(みびいき)になってしまいますよ。(笑)
日本テレビ版のドラえもんについて、触れられる機会はなかなかありませんが、制作に関わられた方としてはどのようにお感じになりますか?
私の後期の仕事は1匹狼のところがあってスタッフも少数しか使っておりませんでした。自分から連絡を絶ってしまったので自分を責めるしかないのですが、私が関わった物が闇の中にあるような気がします、正しく伝わっていないのです。ドラえもんも短い期間で当時の事を知っているスタッフも居らず仕方が無い事だと思います。でも間違って伝えられ るのは汗と涙を流した仲間たちに申し訳ありません。出来るだけ思い出して、なるべく正確に伝え残す義務と責任があると考えてお ります。
 もとプロデューサの佐々木一雄氏や編集の西出栄子さんなどの消息を探しておるところです。
また私が見てきたものは視野の狭いものです。知らなかったことが沢山あります、これを読んでくれた方々から、どんなことでも良いですから教えていただければ、大変ありがたいです。
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