年表メモ2
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1971年 | 1月3日 | アンデルセン物語放送開始(46/12/26) | ||
昭和46年 | 6月 | 手塚治虫 虫プロダクション社長を退陣。 | ||
手塚プロダクション時代 | ||||
虫プロダクションから手塚プロダクションへ移る。 残業代が70時間で打ち切り残りは代休となった、当然代休が増え続け 代休と有給で1年間は休むことが出来たので虫プロを辞めることを前提に有給を取った。 手塚治虫が社長を辞めれば当然私も虫プロを辞めると思われていた。 代休も取りたかったが虫プロの経営状態を考えると権利を放棄するしかなかった。 退職金は少しだがこの時はまだ出た。 |
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6月 | 手塚プロは虫プロへ行く途中の線路そばガードの手前右角お肉屋さんのビルの2階〜4階にあった ヤマハの音楽教室ようのアニメ 氷の国のミースケの続編の依頼を受けて制作を任される 氷の国のミースケを先生に見せてもらいまだ見た事がなかったのですばらしい出来で感動した。 今度は南の国の話で行くと絵コンテを作るがやはり遅れる、でも私に気兼ねしてか思ったよりは早かった キャラクターも出来始め 仕上げの池田径子さん(後の片山)も虫プロを辞めてかけくけてくれ キャラクターの色指定のために徹夜で参加してくれた。作画はスタジオTAKEの正延宏三で彼は 手塚プロに泊り込みで書いた当然先生の原稿の合間に書いた動画は渋谷西原のスタジオテイクで 出来ない分は私の外注さんで虫プロの邪魔をしないよう気を使って私が運んだ。美術は ムクオスタジオの西田稔さん背景もムクオスタジオ撮影は映画制作部部長の鈴木紀男さんの 紹介で菅谷正昭さん(自宅を改築して撮影機を購入一人で作業うをしていた後にスタジオ珊瑚礁) 音響は田代敦巳さんで始まった。 |
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池田径子さん(後の片山径子):手塚治虫派 1番に駆けつけてくれ泊り込みもいとまづ仕事をする一輪の花 ひろみプロの絵本の絵で名前が良く出ている後のふしぎなメルモでも苦労をしてもらうことになる。 鈴木紀男さん手塚プロの映画制作部で一人頑張ってきたふしぎなメルモではプロデューサーの重責を担う。 74年の2月終戦後29年間フィリピンのルバング島にひそみ、日本兵として戦い続けた小野田寛郎(ひろお) さんを発見した鈴木紀夫さん(故人、冒険家)とは別人です。 菅谷正昭さん 宝石や貝そして珊瑚等の輸入をしておりました。私と同じギャランGTOを乗っていました。 今の妻に猫目石の原石を貰いましたアニメの撮影スタジオ珊瑚礁として弟さんとどんどん発展させていきました 後にふしぎなメルモも担当してもらいスケジュールの遅れから動画用紙でのアフレコに間に合わせるための 撮影など迷惑をかけることになるとは思っても見ませんでした。 作品が完成しましたがまだ手塚プロの社員にはなっていなかった私は鈴木紀夫さんからタイトルに名前を入れる わけには行かないむね説明がありました。後でそれを知った手塚先生が作った証としてフィルムをくれました。 |
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6月 | 厚生年金の履歴では7月1日付けで虫プロを辞めているので6月一杯で辞めたと思います | |||
そして同じく厚生年金の履歴では10月1日から手塚プロに入社になっておりこの間身分は正社員ではなかったことが 今になって分かりました。この間年金には不加入 国会議員の厚生年金の不加入問題 こんなところで原因を思い知りました。 |
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ふしぎななメルモ 手塚先生が探していたと、電話の交換の女性から言われ、すぐ先生につないでくれた、いつもの、先生の声で「あ!僕ですがね、話があるのですぐこられないか?」と言う事、母屋にいるとのことで、良い話の予感模して、すぐに母屋へ飛んで行く。話は「アポロの歌」が決まりそうなので、手塚プロの映画制作部を作ると言う事であった。前からの先生との約束であったので、すぐにアンデルセン物語の制作から外してもらうよう岩崎プロデューサーに話して了解を貰う。有給と代休が1年間休めるほどあったので、体が空いたときから、手塚プロの仕事を始める。 パイロットフィルム アポロの歌としてパイロットフィルムは存在した。虫プロ商事または、中村橋スタジオで手塚治虫個人の費用で制作されたと思うが、覚えては居ない。虫プロ商事の西崎弘文氏(西崎義展)が営業で大阪ABCとの契約を決めてきた。 ふしぎなメルモ 題名 主人公メルモの名前を決めるまでには少しの時間がかかった。当時日本語の名前にはほとんど、版権がかかっていたからだ、その問題を話し合ったのは母屋で、社長室があった場所、だった、手塚プロの島方社長、手塚先生の甥の手塚卓さん平田のぽんさん虫プロ商事COMの編集者、そして西崎氏などであった。1日では決まらなかった。無理があって変な名前だと私は思ったがメタモルフォーゼからメルモに決まった卓さんと先生で決めたと思う。 仕事場 手塚プロの映画部は線路のそばのお肉屋さんの2階にあった、始めはそこで制作していたが、すぐに手狭となって、島方社長と物件を探し回った。谷原のほうに廃校となった学校があって、1億で買えた、将来を考えて一層のことそれを買ってしまおうかと言う意見も出たが、押しとどめて、ほかを探し回った、不動産屋さんからの電話で縫製工場で使っていた物件があると言うので、島方社長と見に行った、場所は第5スタジオのほうで、前に事故を起こして、迷惑をかけてしまった八百屋さんの近くで奥まったところの大きな家で、格子戸を空けた庭に当たるところに立っている木造2階建ての建物だった。ガラス戸を開けて入ると土間になっており、一段高く床張りの広い一室であった。納戸も広くトイレも水洗でかなり広い 、2階は2部屋あって畳だった、泊まることが出来る 、静かにする事が条件でそこを借りた。2階の1室は編集室になった。 撮影だしの棚や動画机を新たに鎌田家具店にオリジナルで注文した。急遽電源が必要となったが200ボルトのコンセントしかなく困ったが東電に電話してブレーカーのところから2本の線で取れば100ボルトになる事を教えてもらい配線をして事なきを得た。 |
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制作スタッフ 鈴木映画部長をプロデューサーにおいて、現場の全責任を私が負い製作スタッフを決めた。 手塚先生からの支持で虫プロには迷惑をかけないように絶対に引抜をしないように言明されていた。手塚派の人たちが大勢残って手伝いたがっていたが、うらまれるのを承知でお断りした。 あしたのジョーで一緒に仕事をした片山氏が虫プロに辞表を出して駆けつけてくれた。総務に居た井出ちゃんも辞表を出して進行として働かせろと、駆けつけた。名前を忘れて(はじめから覚えていなかったのかも)申し訳ないがサイケ君も着てくれた募集でやはり名前がわからないやーさんも来てくれた。(とてもおとなしい人で、はいはいと何でも言う事を聞いた素直な子だった、しかしひとたび車のハンドルを握ると、人格が変わり、豹変する。隣に誰が乗っていようとお構いなし、運転は荒いし、常に怒鳴り散らして運転するのである。誰が言うともなしについたあだ名が「やーさん」 あだ名がつくのに時間はかからなかった、だからいまだに名前を思い出せない。 この四人が制作進行として言語に絶する。血の吐く思いの地獄に突入した。 |
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音響 グループ・タックの明田川進さんや田代敦巳さんとは早い時期からお会いしている。主題歌の打ち合わせなどである。打ち合わせでは、まんがの原稿上げのため、忙しいのにも関わらず,ずいぶんと待たせてしまい迷惑をおかけした。私は音楽が好きで作曲などもしていた、ある程度の知識も持っていると自負していた、しかし音響室のころにお話をして私の知識のなさを思い知った、そして尊敬していた。社長室で待ち合わせしているときにお話を伺う事があった。アメリカでセサミストリートがヒットしていて、日本でも、そのような夢のある番組を作りたいと言う事を私のようなものに熱く語ってくれた。先見の明があった人だった。作曲家の宇野誠一郎さんからの楽譜が届けられたのも母屋のほうであった、早速先生がピアノを弾いて歌ってみた、私的には?であった。 |
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オープニング 朝出勤すると、階段のところで先生が待っていた、目がいたずらっぽく何かしたなと思った、部屋へ引きずるように招き入れて、手に持った動画用紙を何も言わず見せた。すごい量の動画用紙であった。目の前で相変わらずのいたずらっぽい目でぱらぱらとめくっていく。花が開いていく動画であった、昨日遅く帰ったときは、漫画原稿上げで忙しかったはず。驚かせようと一晩で描いてしまった動画それがオープニングの絵であった。 |
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メルモは長い間実験映画でしかアニメを出来なかった手塚先生のために、出来るだけ好きな事をさせたいと言う目的を密かに持っていた。島方社長もその事には賛同していた(同罪)先生も子供たちには財産は残さない自分の力で自立してもらいたいと常々言っていた。製作者としては失格である。その上全面的に先生を補佐するために演出助手として真佐美ジュンが登場してしまう。先生のアイディアでいろいろな事が試される事になる。 | ||||
ストーリー すべて手塚治虫のオリジナルであった。始めは脚本家を集めて先生のアイディアを、カセットテープにとってお持ちいただいて書いてもらった、((カセットテープの量は沢山になって、終わったものはすべていただいたが、貧乏な私はその上に音楽をとってしまって、残念ながら現存してない。)校閲もすべて行ったためにどんどんスケジュールはなくなった。 |
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絵コンテ 従来の絵コンテ用紙ではなく動画用紙サイズの絵コンテ用紙に手塚先生のアイディアで行われる事になった、多々弊害が出る事は分っていたがその通りに作業は進めた、動画用紙サイズのた原画の人のキャラクターを統一できて作画監督の作業が楽になり、作業がスムースになると言うのが先生の売りであったが、絵コンテをすべて先生が書いたらの話であって、当然不可能な事になっていく。 |
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演出 すべて手塚先生がチェックした、撮影出しも,ぎりぎりまで待って私が手伝って時間の許す限度を超えてやった。前半はチーフディレクターを永樹凡人さんに担当してもらったが、そのようなスケジュールではスタジオジョークの経営が成り立たなくなり、社員を路頭に迷わすわけにも行かず、泣く泣く降りる事になった。引き続いての犠牲者はなり手がないところ無理を言って親友のスタジオTAKEの正延宏三に押し付けるように頼んだ。(先生の作品と言う事でかなりの安い賃金でみんなが参加してくれていた) |
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アフレコさんへのお詫び とうとうスケジュールがなくなってしまい絵コンテが上がってから放送日まで1週間になってしまった。動画が上がると同時に灰コントラストのフィルムで撮影背景や仕上げと平行して音響の作業をしてもらった、撮影出し、現像所出し、フィルムのつなぎ編集と真佐美ジュンが1人でやった最初のうちは線画の動きでのアフレコにになさん面白がっていた。しかしとうとう間に合わなくなってしまい、仕方なく一計を案じてフィルムの前に付ける白身のフィルムに編集用の和バサミの先で傷を付けて文字を書き込みアフレコのタイミングを指示するという寓挙にでてしまった。これには仏の顔も3度である。絵がないのだからアクションの付けようもないのである。声優さんたちの声にも張りがなくなってしまった。声優さんたちには大変迷惑をかけてしまった。メルモに参加していただいた声優さんは絵が無いのにアフレコをしてくれたのだ。メルモをやった事でかなりも被害を被ったはずで、私などがお詫びしても仕方が無いかもしれないが、心からお詫びをしたい。申し訳ありませんでした。この件は騒がれもせず、そのような事があったという事実も報道されて無いようで、声優さんたちの名誉のためにも、生き証人として、報告しておく義務があるのでは。 |
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7月 | 手塚プロ社員となる。 ←社員になったと思っていた。 | |||
8月 | ヤマハのPRアニメ「南へ行ったミースケ」公開。 | |||
8月 | ふしぎなメルモの制作開始 | |||
9月29日 | あしたのジョー放送終了 | |||
10月3日 | ふしぎなメルモ放送開始 | |||
10月3日 | 日 | ふしぎなメルモ 1話 ミラクルキャンデーをどうぞ!! | ||
10月10日 | 日 | ふしぎなメルモ 2話 ブラ子どこへ行く | ||
10月17日 | 日 | ふしぎなメルモ 3話 男の子をやっつけろ | ||
10月24日 | 日 | ふしぎなメルモ 4話 チッチャイナ国のとりこ | ||
10月31日 | 日 | ふしぎなメルモ 5話 もえる無人島 | ||
10月 | 青いトリトン Pilt Film 虫プロ商事 8分 カラー作品 | |||
11月7日 | 日 | ふしぎなメルモ 6話 白雪姫をいじめよう | ||
11月14日 | 日 | ふしぎなメルモ 7話 とかげ館の一夜 | ||
11月21日 | 日 | ふしぎなメルモ 8話 ママがかえって来た! | ||
11月28日 | 日 | ふしぎなメルモ 9話 ビリケンまかり通る | ||
12月5日 | 日 | ふしぎなメルモ 10話 ヘソガエルのひみつ | ||
12月12日 | 日 | ふしぎなメルモ 11話 あの子をにがすな! | ||
12月19日 | 日 | ふしぎなメルモ 12話(A)ひん死の白鳥 | ||
ふしぎなメルモ 12話(B)学園広場を守れ | ||||
12月26日 | 日 | ふしぎなメルモ 13話 クリスマス・メルモ | ||
1972年 | 正月 | 高知県中村市で門出を行う | ||
昭和47年 | 1月2日 | 日 | ふしぎなメルモ 14話 身代りにされちゃった! | |
1月9日 | 日 | ふしぎなメルモ 15話 メルモと魔術師 | ||
1月16日 | 日 | ふしぎなメルモ 16話 ぼくは人間だ! | ||
1月23日 | 日 | ふしぎなメルモ 17話 ひとりぼっちのジャングル | ||
1月30日 | 日 | ふしぎなメルモ 18話 3650日の恐怖 | ||
2月6日 | 日 | ふしぎなメルモ 19話 メルモの初恋 | ||
2月13日 | 日 | ふしぎなメルモ 20話 すて猫トラちゃん | ||
◎ | 2月19日 | 日 | 浅間山荘事件28日強行テレビ中継 | |
2月20日 | 日 | ふしぎなメルモ 21話 姉ちゃんなんて大嫌い | ||
2月27日 | 日 | ふしぎなメルモ 22話 わたし求婚されちゃったァ!! | ||
3月5日 | 日 | ふしぎなメルモ 23話 光と闇と愛 | ||
3月12日 | 日 | ふしぎなメルモ 24話 恋人がいっぱい | ||
3月19日 | 日 | ふしぎなメルモ 25話 豪傑赤ちゃんに泣く! | ||
3月26日 | 日 | ふしぎなメルモ 26話 さよならメルモ | ||
3月26日 | 日 | ふしぎなメルモ 最終回放送 | ||
3月海のトリトンの制作に入る。 | ||||
西崎事件が起きる。 | ||||
西崎と田無市西原町のドライブインで会う、プロデューサーの申し入れを断る。 | ||||
手塚プロの映画制作部は私一人だけになり、島方社長と営業活動をするも今までの、手塚治虫の版権が使用できないため 営業できず、やさしいライオンだけが唯一となる。 |
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4月 1日 | 海のトリトン | |||
私が企画していたキャプテンケンやエンジェルの丘も企画を進めることが出来ずにいる。 | ||||
新企画、ミクロイドZを企画する話を手塚治虫から聞くが 雑誌連載がまだなのでいつになるかわからず。 | ||||
6月 | 西原自宅アパート契約更新 | |||
やさしいライオンを教育映画社に持っていく。 | ||||
手塚プロダクションの映画部を閉鎖する | ||||
7月16日 | 手塚プロダクションを退社 | |||
スタジオ TAKE 時代 | ||||
モンシェリCoCoの制作を任される。 | ||||
新潟へ正延と打ち合わせに行く途中熟睡してしまい新潟市内で交通事故を起こす。 このためドラえもんの始めのころ免許停止で不便な目にあう。 |
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事情がありモンシェリCoCoを降りる。 | ||||
11月26日 | 手塚治虫ご夫婦の仲人で新宿ステーションビルにて結婚式を挙げる。 手塚プロの社員の時に結婚式をあげたと思っていたが調べてみるともう社員ではなかったことが分かった 後見人は手塚先生のお父さんとお母さん お父さんがたくさんの写真を撮ってくださったおかげで式のときの様子がわかる。 |
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モンシェリCoCo最終回 | ||||
1973年 | 1月8日 | 免停90日(45) | ||
昭和48年 | 1月 | 日本テレビ動画 時代 | ||
3月22日 | 免停120日(60日)」 | |||
4月 1日 | ドラえもんの放送開始 | |||
4月 1日 | ドラえもん 1話 でた!ドラえもんの巻 | |||
ドラえもん 2話 ペコペコバッタ大騒動の巻 | ||||
4月 2日 | ワンサくん 関西テレビ系 23分 カラー 26本 | |||
4月 7日 | ミクロイドS NET系 23分 カラー 26本 東映動画 | |||
4月 8日 | ドラえもん 3話 屋根の上のすてきな子の巻 | |||
ドラえもん 4話 のび太のご先祖さんの巻 | ||||
4月15日 | ドラえもん 5話 弱味をにぎれの巻 | |||
ドラえもん 6話 キューピットですきすき作戦の巻 | ||||
4月22日 | ドラえもん 7話 ねずみに弱いねこもあるの巻 | |||
ドラえもん 8話 ガキ大将をやっつけろの巻 脚本 井上 知士 絵コンテ 奥田 誠治 | ||||
4月29日 | ドラえもん 9話 おせじ鏡の巻 | |||
ドラえもん 10話 パパとママの結婚記念日の巻 | ||||
5月 6日 | ドラえもん 11話 のろいカメラの巻 | |||
ドラえもん 12話 宝くじ大当たり作戦の巻 | ||||
5月13日 | ドラえもん 13話 決闘! のび太とジャイアンの巻 | |||
ドラえもん 14話 わたしは誰でしょうの巻 | ||||
5月20日 | ドラえもん 15話 アベコンベ騒動の巻 | |||
ドラえもん 16話 おばけ屋敷の謎の巻 | ||||
5月27日 | ドラえもん 17話 クイック・スロー大作戦の巻 | |||
ドラえもん 18話 のび太は雨男の巻 | ||||
6月 | 哀しみのベラドンナ | |||
6月 3日 | ドラえもん 19話 ウルトラミキサーの巻 | |||
ドラえもん 20話 ねがい星流れ星の巻 | ||||
6月10日 | ドラえもん 21話 ふしぎなふろしきの巻 | |||
ドラえもん 22話 のび太のおばあちゃんの巻 | ||||
6月17日 | ドラえもん 23話 大リーグの赤バットの巻 | |||
ドラえもん 24話 男は力で勝負するの巻 | ||||
6月24日 | ドラえもん 25話 ガチャ子登場の巻 | |||
ドラえもん 26話 おしゃべりくちべにの巻 | ||||
7月 1日 | ドラえもん 27話 すきすきカメラの巻 | |||
ドラえもん 28話 天の川でデイトしようの巻 | ||||
7月8日 | ドラえもん 29話 へんなロボットカーの巻 | |||
ドラえもん 30話 ニコニコせっけんの巻 | ||||
7月15日 | ドラえもん 31話 おれ署長のだいりの巻 | |||
ドラえもん 32話 さあ夏だ!スキーをやろうの巻 | ||||
7月22日 | 野球オールスター戦中継 | |||
7月29日 | ドラえもん 33話 成績表はいやだなあの巻 | |||
ドラえもん 34話 自分のかげをつかまえろの巻 | ||||
8月 5日 | ドラえもん 35話 潜水艦で海へ行こうの巻 | |||
ドラえもん 36話 くるった腹時計の巻 | ||||
8月12日 | ドラえもん 37話 キャンプ騒動の巻 | |||
ドラえもん 38話 忘れな草って何だっけの巻 | ||||
8月19日 | ドラえもん 39話 クーラーパラソルの巻 | |||
ドラえもん 40話 いつでも日記の巻 | ||||
8月26日 | ドラえもん 41話 宿題おばけが出たの巻 | |||
ドラえもん 42話 お天気ボックスの巻 | ||||
8月22日 | 虫プロ商事倒産。 | |||
9月 2日 | ドラえもん 43話 ぼくに清き一票をの巻 | |||
ドラえもん 44話 まんが家修業の巻 | ||||
9月 9日 | ドラえもん 45話 すてきなガールフレンドの巻 | |||
ドラえもん 46話 花いっぱい騒動の巻 | ||||
9月16日 | ドラえもん 47話 そっくりクレヨンの巻 | |||
ドラえもん 48話 静香の誕生日の巻 | ||||
9月21日で日本テレビ動画の厚生年金が終わっているこのことから21日の給料が最後で 後はただ働きであったことが分かる。 | ||||
9月23日 | ドラえもん 49話 宇宙飛行士になりたいの巻 | |||
ドラえもん 50話 まいごマゴマゴ大騒動の巻 | ||||
9月30日 | ドラえもん 51話 ネンドロン大騒動の巻 | |||
9月30日 | ドラえもん 52話 さようならドラえもんの巻 | |||
最終回 さようならドラえもんの巻 | ||||
ドラえもん残務整理で東久留米市下里の倉庫で新潟スタジオで使用していた資材などを受け取り購入した外注さんに渡す 自分が購入したものが無くなってしまっていた。 |
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9月 | ひろみプロが電通映画社から受けたPR用漫画映画 原子力物語の製作を受ける。 | |||
11月 1日 | 虫プロダクション倒産。 | |||
手塚治虫都内杉並区下井草に引っ越す。牛越らと先生のお母さんに会いに行くが誰にも会わなくなってしまい会えなかった。後に1人で行って会ってその理由を聞く。 | ||||
1974年 | 東京で雪が降った次の日に電通映画者の人たちと東海村へ取材のため行き発電所の中を見学する。 いろいろな図書館へ行って原子力発電の歴史や仕組みなどを猛勉強してかなり詳しくなる。 水力発電の簡単なPRを作る。 中部電力 浜岡原子力発電所 用 原子力物語 を完成させる。 |
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昭和49年 | 4月 | 東京都立立川高等職業訓練校 電子工学科 入学 | ||
1975年 | 3月25日 | 優秀な成績で卒業 努力賞を受ける。 | ||
昭和50年 | 漫画映画制作活動を停止する。 | |||
その後の 手塚 治虫 | ||||
1979年 | 5月 | 都下東久留米市へ引っ越す。 | ||
昭和54年 | ||||
1983年 | 1月 4日 | 母文子死去(享年74歳)。 | ||
昭和58年 | ||||
1985年 | 12月26日 | 東京都民栄誉章受賞。 | ||
昭和60年 | ||||
1986年 | 5月14日 | 父粲死去(享年86歳)。 | ||
昭和61年 | ||||
1988年 | 3月15日 | 半蔵門病院に入院。 | ||
昭和63年 | 5月12日 | 退院。 | ||
10月3日 | 再入院。 | |||
1989年 | 1月9日 | 昭和天皇崩御 | ||
昭和64年 | ||||
平成元年 | 2月9日 | 胃ガンのため没(享年60歳)。 | ||
2月12日 | 自宅にて密葬が営まれる。 | |||
戒名 伯藝院殿覚圓蟲聖大居士(はくげいいんでんかくえんじゅしょうだいこじ)。 | ||||
2月23日 | 政府より 勲三等瑞宝章 叙勲。 | |||
3月2日 | 本葬が青山葬儀所にて営まれる。 | |||
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