W3の漫画が連載されたのは はじめ

 「少年マガジン」の1965年 13号から18号に

 掲載されたが
 手塚治虫は はじまってから4回で

 W3の連載を打ち切った。

 「宇宙少年ソラン」も「少年マガジン」で

 始まることを知ったからであった。
 ワンダースリーはアニメと漫画の話が別なのでアニメのストーリーは手塚 治虫ではないとお思いの諸兄もお出でとは思うが、全ては手塚治虫の指揮の基に作られた、つまり脚本家は手塚治虫からストーリー展開を聞かされてそれに沿った脚本を書き、手塚治虫の校閲を受けた。そのことが雑誌の原稿に追われる手塚治虫のスケジュールの中での合間を縫って行うので、スケジュールの遅れの慢性化へとつながり、のちの手塚治虫原作離れへとなってしまう。
絵コンテ然り、全て手塚治虫の校閲があり意にそぐわない絵コンテはどんなにスケジュールがなくなろうと、リテーク(やり直し)が出された。(仕上期間のスケジュールや手塚治虫の校閲のスケジュールがないのを理由に、何とか直さずにやらせてほしいとお願いすると、必ず帰ってくる答えは、手塚治虫の名前をタイトルからはずせで、駄々っ子のようになり、手が付けられなくなった)←内緒
また各班には手塚治虫の動画机があり夜雑誌編集者の見張りの目を盗んでは動画を書きに来て若い人たちに見せたり、話をするのが、手塚治虫の唯一のストレス解消法だったのかもしれない。
そして気になるカットは撮影だしにまで立ち会った。またタイムシートを書き直しただけでまったく、動きが生き返ってしまうのには、驚かされ、それを盗むことで後には大変役に立った。
ワンダースリー班に配属が決まった制作の下崎 神田 吉村 中島 4人と作画の渡辺 岡野2人が黒川APにつれられてワンダースリー班の各パートの人たちに紹介されていった。 ワンダースリー班は虫プロダクション第三スタジオにあった。第3スタジオといっても普通の小さなアパート下に4部屋2階に4部屋の道路に面した左側の入り口のドアを開けて急な階段を上った2階に有った。室内は仕切りという仕切りを全て取り外してぶち抜きにしてあり柱だけが残った一つの部屋として使っていた、そして動画机や仕切り板で仕切って作画班や背景班仕上げ班等仕切ってあった。下の部屋は手前がお茶屋さんの倉庫代わり隣が一般の人が住んでいて一番奥の部屋がライブ資料室だった。
撮影出しのための大きな棚に囲まれた狭い机のそばで作業中の文芸と演出家の人たち。動画机に囲まれたやっと一人が通れる通路の近くで作画の人たちと皆優しそうで笑顔で迎えてくれた西側奥は仕上げと特殊効果女性が多く皆美人ですごく大人に見えた。
そして背景皆美大を出た画家さんと言う感じの人たちそして1階に降りて奥の部屋資料室、隣の編集室、2スタの戻って1階奥突き当たり資料室ドア手前左の部屋音響室の皆さんに案内されて紹介される。
1スタに戻り左ドア手前の守衛室昼間は電話の交換室となり交換手の人に隣の部屋撮影室で各撮影機の部屋から撮影のスタッフを呼び寄せて紹介されて音響と撮影は各班には所属せず全ての作品を担当責任者を決めて全員で作業しているとの説明を受ける。右側のドアから入りすぐ左のドアを入って総務、経理、事務関係の人たちに紹介される。戻って左に次回廊下の左の部屋役員室で 今井専務 桑田常務 穴見常務に紹介され挨拶する。1スタ2階鉄腕アトムの制作室で挨拶して 2スタ2階ジャングル大帝準備室のスタッフの人たちにも挨拶する。
そして株式会社虫プロダクションの3ヶ月社員見習いとしてスタートした。
◎虫プロの面接の時には1週間の内1日2日帰れない時があると説明された出社した次の日から貫徹となり、1週間のうち帰れるの は1日2日と逆転しやがては1月に帰れるのは1日2日になってしまった
◎黒川慶二郎 尊敬し目標と憧れの黒川アシスタントプロデューサー、初日から私の教育係としていろいろ教えてもらった。そして第4スタジオ(アパートそのまま)の1部屋に案内され制作実務の説明を受けた、しばらくすると私の許しを請うて「横にならせて呉といい」そのまますぐに 熟睡してしまった。よほどハードな仕事なのだなと覚悟したが、思った以上に遥かにハードであった。
後半にはプロデューサになられたが、仕上げで皆から好かれていた、進藤八枝子さんと婚約した、スキー好きの二人は意気投合してテレビ結婚式(昼の12時5分から放送していた)で結婚なされた。なりそめなどを撮影班の人たちで16mm撮影機でスキー場に行き2人の「なりそめ」などを撮ってきてテレビ結婚式でも放送されたりした。今では珍しくは無いが黒川さんは、その走りをやった。
◎小柳 朔郎 やがて忙しすぎて人手不足になり制作進行をすることになる。いままで進行をしていた人たちは演出などを担当した私も単純に将来は演出の方へいけると思っていたが夢は甘くなかった。進行の先輩小柳 朔郎さんに教えられ外注さんの場所など一緒に回ったまだ新青梅街道もできていないころ畑や田んぼが残っていて狭い分かりづらい道筋を覚えねばならなかった。その道筋を先輩小柳 朔郎さんにあやかって仲間内では「朔(さく)さん道路」と読んでいた。
◎吉村 昌輝 同期に入り大の親友となる。良く一緒に車で外注回りをする。音楽でも趣味が一致して真夜中の運転でものりに乗ってサッチモのウェンザセイントゴー マーチイン(カタカナで書くと変だね)そうか「聖者が町にやってくる」 だそれを3〜40分 五つの銅貨の映画の主人公の2人みたいに、のりにのって外注さんへ、たどり着くまで歌いまくった。彼は努力家で、寝るのを惜しんで自分で勉強し、後に作画の試験を受け作画班にへと移ったが、皆からも愛された。ーこの歳になって思い直すと私のそばにはいつも私を見守って助けてくれる人が居たことに気がつく。ー 虫プロの時の彼がそうであったことを振り返ると思い知った。
 当時ウエスタンがはやっていた。私はアメ横へ行って、テンガロンハットを買ってきて、それをかぶっていた。仲のよかった彼もアメ横へ行って来るといって、出かけた、帰ってくるとドイツ軍のヘルメットを買ってきた、コンバットというテレビ番組が流行っていた。作画班のチーフの進藤さんが(君と言うのを、おぬしと言うので、仇名が付いて「おぬし」と皆から親しみを込めて呼ばれた人)吉村君のことを「軍曹」と仇名をつけた。今も手塚プロにいらっしゃるが、「軍曹」と呼ばれているのだろうが、けして怖い「鬼軍曹」ではなく、とてもやさしいリーダーの「軍曹」であるという。
◎神田 武幸 同じく同期親友となる幼なじみの彼女と中村橋のアパートで同棲していた 免許証を持っていなかったので演出助手をした演出にあこがれた私はうらやましかった。良く私と組まされた。斎出 光布さんの作品の時だと思う撮影だしの時に演出助手の神田 武幸がこないのであるそれもたびたび 怒った演出の斎出さんは私に演出助手もやれと命令した 彼は下ろすというのである。寝ない日が続いたが何とか完成させた、そしてエンドタイトルの演助に私の名前も乗せてくれるという進行と同じ名前ではと言う事で初めて 真佐美ジュンの名前を使ったそれからも演助を兼任の時は真佐美 ジュンの名前を使うことになった。神田 武幸をカンちゃんと読んでいたが 漫画でピンからピリちゃんというのが有ってその中に神田のタケボーというのが出ていた そこで神田のたけぼーと呼ぶようになり私はたけぼーと呼んでいた免許も持っていないのに車を乗り出したり皆をひやひやさせたが生来の明るさで皆から愛された。カメラの趣味から手塚先生のお父さんとも仲良くなり 部屋の暗室を自由に使わせてもらったり 編集のライブラリーから片っ端からフィルムを持ち出し3階の試写室で寝ている人にかまわず一緒に見たことなど彼のおかげでいろいろ勉強できた。今はもう会えなくなってしまい 思い出を話すことも出来ない。
◎中島 浩 ワンダースリーのあと辞めてしまった 酒豪で男前皆で銀座に飲みにいったときのかっこよさだけが印象に残っている酒がまったく飲めなかった私は彼にあこがれた1軒めで軽い食事をしてワインを飲んだ口当たりが良くて結構飲んだと思う。仕上げにバーへ行った彼はウィスキーのストレートを注文した私も真似をした。結構無理をすればのどに流し込めるものと知った。5〜6杯は飲んだと思うしばらくして高いカウンターの椅子から立ち上がろうとしたが立ち上がれなかった意識はハッキリしているのだが腰が抜けてしまったのである。私のために皆が時間を必要とした。なべ子さんなどが心配するなかを大丈夫と電車で東京駅 から南浦和まで帰った南浦和へ着くと同時に私は耐え切れずもどしてしまった大醜態であった。次の日の2日酔い頭の痛さもう2度 と酒には手を出さぬと誓った。そんな中島 浩(たぶんでハッキリと名前が思い出せない)が辞めたのは仕事がつらいためではなかった。当時私にはまだ分からない恋愛問題が有ったようなうわさを後で聞いた。
◎渡辺佳子 紅一点同期入社美大卒の作画班 後に先生からなべ子さんと呼ばれ電話の新聞広告の中でイタリヤのなべこさんとい うのが彼女 虫プロ3大美人の一人同期ということで彼女がイタリアへ嫁いだ後までも親友であったよく貫徹も一緒にしたし仲間と  夜明けの石神井公園 そして正丸峠方面の気晴らしドライブなど一緒だった 書いたように美人でしたが仲間意識が先で女性とし  て見てはいなかった愛に目覚めるのには」まだまだ時間がかかった。今の私なら自信はない。その後も常に私の近くに居った。
◎河合 龍 音響監督となっているが進行の先輩として可愛がってもらった舞台俳優として頑張っていたが資金のため働いていた鷺宮のアパートに住んでいたある日彼を送っていくと新青梅街道の交差点のラーメンやさんでラーメンをご馳走してくれるという。出されたラーメンを見てびっくりゴキブリがうようよ入っているのであるとても食べられないどのように断ったのかは覚えていないが食べられなかったのは事実だと思う。そして今までなんだったのかというなぞが残っていたが今年の5月24日の8時半文化放送を聴聞いていると埼玉県越谷市のチーボーさんという人の九竜虫についての話 そして九竜虫について検索をかけると長年のなぞが解けたのである。あれがそうだったのだ。
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