氷の国のミースケ
ヤマハエレクトーンのPR映画/16分/カラー
手塚プロダクション
1970年7月
ミースケ 松島 みのり ナリー 三輪 勝恵 ポコ 堀 絢子
 
企画 日本楽器製造    (ヤマハ)
原案、構成、製作 手塚治虫
作画監督      杉井ギサブロー
仕上         池田 径子 (片山)
背景         ムクオスタジオ
撮影         菅谷 正昭
作曲         横山 菁児
音響         田代 敦巳


ミースケ        松島  みのり

ナリー         三輪  勝恵

ポコ          堀  絢子
ヤマハエレクトーン教室の生徒募集用に作られた短編アニメです。冷蔵庫から飛び出してきた子犬のポコに連れられて冷蔵庫から氷の世界へと冒険に出るミースケ少年。氷の世界ではあたたかな食べ物を欲しがる少女ナリーがいた。彼女のためにあたたかな食べ物を見つけようとするのだが氷の世界ではすべてがすぐに凍ってしまう・・・・・
 手塚プロへ行って手塚先生からこの作品を見せられるまで、このようなすばらしい作品があることを知らなかった。シーツをぬらして凍らせて、それで大きな紙飛行機を作り、それに乗って飛んでいく、そのすばらしさと、音楽の心踊るメロディー、私がもっとも作りたい作品の1つとなった。                    そして,今年も 作品製作の依頼があったという。退職願いは出してあったが虫プロをまだ辞めては居なかった、無償で作らせて貰う事となった、それが 南の国のミースケ(南へ行ったミースケ)であった。




南へ行ったミースケ  
ヤマハエレクトーンのPR映画
(15分 カラー作品)
手塚プロダクション  1971年8月
 
企画          日本楽器製造
原案、構成、製作  手塚 治虫
作画監督       正延 宏三
美術設定       西田 稔
仕上          池田 径子(片山)
背景          ムクオスタジオ
撮影          菅谷 正昭
作曲          横山 菁児
音響          田代 敦巳
進行           福島 信行



ミースケ         松島 みのり

チーチャ         増山 江威子

イケボー         山本 嘉子

ドンタン         北川 国彦
        
今度は戸棚からチーチャとイケボーが飛び出してきてふたりはお母さんを助けるため、神様ドンタンの問題を解かなくてはならないと言い、ミースケに協力を求める。そしてミースケは戸棚を通って南の国へ…。
 絵コンテの段階から、手塚先生に張り付いた、雑誌に忙しい中の作業であったが、退職届を出した私には、時間はいくらでもあった、泊り込みの日が続いた。作画はスタジオ テイク 代表の正延 宏三さんとは、あしたのジョーで大の親友となっていて、気心も知れ、続いてのメルモも手伝ってもらう約束が出来ていた。そして同じく、ひろみプロの仕事をしていた、仕上げの池田さんが(現片山)駆けつけてくれて、無条件で昼夜を問わず仕上げを手伝ってくれ、色指定の段階では手塚プロ2階映画部の住人となっていた。美術の西田さんも作画が進むに連れて、背景のボードを貼っていき、各シーンの背景が出来上がっていった。
撮影の菅谷さんは関越のそばの自宅を改造して、撮影機を置いてあった、私と同じギャランGTOを色違いで(オレンジ)乗っていたので仲間意識を持った。撮影は早かったが、なにせ飲平、ビールをケースで買っていた。そして、貿易できれいな貝の輸入品を扱っていた、会社名も珊瑚礁と付けていた。音響は田代さん任せておけば良かった、手塚先生はやはりアニメがやりたくて仕方がなかった、いくつかのカットを自分で書いた、虫プロの邪魔をしないように、仕上げの外注さんは、遠くても頼みに持っていった。寝ない日が続いた。撮影出しは、手塚先生に付きっ切りで指示を受け、演助の仕事までやった、乗っていた仕事であった。背景がかなり上がった所で、手塚治虫からクレームが出た。ジャングルの背景のイメージが違うと言う、もっと、羊歯(シダ)のような感じの葉っぱにしてほしいと言う注文であった。
 もうほとんど、背景はあがっていた。私たちは、それがどのような事か知っていた、ムクオスタジオは、ほかの仕事も入っていた、西田さんに、負担が掛かる。次の朝すべての背景が治っていた。徹夜で、西田さんが一人で書き直していた。虫プロ魂であった。確かに、手塚治虫の指摘は、正しかった、見違えるように背景が生きた、西田さんも納得した。 そして挿入歌の子守唄、ね〜んね、ねんね、でぐっすりとねた。
 私的には、先の氷の国のミースケのほうが、良い作品と思う、そして黒人を使った事で、この作品は日の目を見なくなるかもしれない。
この作品はたしかにわたしが、製作担当した、しかし、当時はまだ、手塚プロの社員ではなかった。映画部鈴木部長は、私を喫茶店に呼んで頼んだ「あなたの名前をタイトルに入れないことを承知して欲しい」と、
 「手塚 治虫と仕事が出来ればよいのでかまわないよ」と私は答えた。



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