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1962年(昭和37年) 第1回 株式会社虫プロダクション 作品発表会で公開する。
22分53秒のカラーでワイドの作品 ある街角の物語と鉄腕アトムの完成試写を兼ねて開かれた |
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手塚 治虫 |
製作 |
山本 暎一 |
原案 演出 |
紺野 修司 |
構成 原画 |
広川 和行 |
撮影 演出 |
泉 司朗 |
効果 |
野木 行雄 |
動画 |
白川 成子 |
仕上 |
松本 双葉 |
仕上 |
大野 静子 |
仕上 |
石井 マヤ |
仕上 |
アオイスタジオ |
録音 |
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1964年(昭和39年) 第4回 草月アニメーション・フェスティバル に出品する。 5分13秒のカラー作品
次の 人魚 と一緒に出品された。 |
メモリー(思い出)のとはなんなのか、記憶のあいまいなこと、そしていまを美しくかえてくれる、
メモリーのよしあしを歌う、そして地球最後の日のあとに、地球が宇宙のメモリーとなってしまう。
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手塚 治虫 |
原案 構成 演出 作画 |
富岡 厚司 |
制作 |
山本 繁 |
原画 |
沼本 春海 |
動画 |
清水 達正 |
撮影 |
大野 松雄 |
効果 |
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デフォルメした絵を動かしたり写真合成をためしたりした実験アニメの小品。思い出の不確かさをパロディーにし、人は戦争の愚かさまで忘れるのか、そして宇宙人が・・・・。
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1964年(昭和39年) 第4回 草月アニメーション・フェスティバル に出品する。 8分18秒のカラー作品
上の めもりい と一緒に出品された。 |
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手塚 治虫 |
原案 構成 演出 作画 |
富岡 厚司 |
制作 |
山本 繁 |
原画 |
沼本 春海 |
動行画 |
佐倉 紀行 |
効果 |
冨田 勲 |
音楽 |
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一人の青年が海で魚を助ける。 |
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青年は家に連れて帰り、 水槽に入れて眺めている、 |
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しかしほかの人には、魚としか見えないこの国では、自由な空想は、ゆるされませんでした。 |
そのために青年は「人魚ではないと」、強制的に洗脳されてしまいます。やがて青年は「魚」としか見えなくなります。 |
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そして青年は魚を海に帰します。そのとき魚は、ふたたび、人魚となります。 |
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青年は海上を飛び跳ねる人魚を追って、海へと入って行きました...............。
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第5回草月アニメーション・フェスティバルに出品/4分17秒/カラー 虫プロダクション/1965年10月1日 |
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手塚治虫 |
原案、構成、演出、作画 |
渡辺忠美 |
製 作 |
ラヴェル 「ラ・ヴァルス」 |
音 楽 |
進藤 八枝子 |
仕 上 |
小室 保孝 |
仕 上 |
安藤 正己 |
仕 上 |
平田 昭吾 |
仕 上 |
源川 富子 |
仕 上 |
安田 高亘 |
仕 上 |
校篠 満 |
仕 上 |
宮下 祐子 |
仕 上 |
成田 マキホ |
仕 上 |
下村 進 |
仕 上 |
古川 雅士 |
編 集 |
佐倉 紀行 |
撮 影 |
清水 達正 |
撮 影 |
ほか多数 |
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手塚 治虫がアニメーションフェスティバル用に書き下ろした?作品
仕上げはワンダースリーの 八枝子さん(のちにAPの黒川さんと結婚)トレスを引き受ける。
面白いのは彩色でほとんどが漫画部のアシスタントの人たち、現場に迷惑をかけたくないと言う配慮。
宮下 祐子さんはバンパイアで先生の秘書として登場するが、本物の、先生の秘書。
撮影や編集以外、そのほかはほとんど一人でやった。 |
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いかだで、漂流中の男 |
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しずくを見つける |
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棒でしずくを |
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伝わらして飲もうとする |
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渇きから幻想を見る |
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しずくは、蒸発してしまう |
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ヨットが現れる 水をくれ〜 |
水ならある |
塩水は飲めない |
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海から川に入っていた |
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水がなくなり、照りつける太陽のもと、いかだで、漂流中の男は帆布にたまったしずくを見つける。それを、どうにかして飲もうと、帆柱に登ってみたり、棒でしずくを伝わらして、飲もうとするが、いかだが揺れたりの、どたばたがあって、海に落ちたりして、飲めずじまい。そのうち、日照りでしずくは、蒸発してしまう。そして男は渇きから幻想を見る。白バックに白抜きのシーンで白いしずくがおんなの姿となり男の手から逃げ回る、現実に戻った男は悲観して、首をつろうとするが、そのときヨットが現れる。「水をくれ〜」と男が頼むと、帰ってきた答えは「水なら周りにあるじゃないか」と言う。画面が大きくズームバックすると、いかだは海から川に入っていた。
- わずか1週間で手塚治虫自身が背景画まで自分で描いて自主製作したものです。
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第5回草月アニメーション・フェスティバルに出品/3分50秒/モノクロ 虫プロダクション/1965年10月1日 |
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手塚治虫 |
製 作 |
月岡貞夫 |
脚 本 |
月岡貞夫 |
演 出 |
月岡貞夫 |
動 画 |
月岡貞夫 |
仕 上 |
京王プロダクション |
撮 影 |
松浦典良 |
編 集 |
池内辰夫 |
音 響 |
渡辺忠美 |
制作協力 |
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第5回草月アニメーション・フェスティバルに出品するに当たって、手塚治虫はしずくを制作したが、
虫プロからの出品作品がすくないので、急遽月岡貞夫さんに自由に実験映画を作らないかと、誘う。
当時コマーシャルなどを仕上げまで一人で作っていた月岡さんは、1も2もなく喜んで、短期間で作った作品。
この作品も撮影出しまではほとんど一人で制作、少し奥さんが手伝ったぐらいであった。 |
手塚治虫は前々から、月岡貞夫を高く買っていた。
当時今一番のアニメーターだと、エッセイなどにも、書いていた。
田無駅の2つ先の踏切を渡って、左に入ってしばらく行った、当時珍しい、
2階建てのコンクリート作りの、大きな家だった。
奥さんとは,同郷であったことなどで、仕事で遅くなったときなど、食事をご馳走になったりした。
家の周りはまだ畑ばかりで、とうもろこし事件の、思い出などもあった。 |
草月アニメーション・フェスティバルでは 当時のアニメーターの人たちとの交流の場になった。
時間を作っては、青山通りの会場に車で見に言った、駐車がそれほど、厳しくない時代であった。
当時ゲバゲバ90分に短編を出していた、九里 洋二さんに捕まって、よく話をした。
君たちは良いな、と必ず言った。虫プロがバックだから、良いというのである、スタッフも豊富に居るし、
予算も儲かっているだろうから、豊富にある、良い物が出来て当然、と言う、何回も言われる。
間毎年言われた、でも、現状は、知らないはずだ。説明はしたはず。 |
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3分42秒/モノクロ虫プロダクション/1968年10月完成 |
私の社長室のときの日記に旧約聖書を手塚治虫に購入するよう頼まれた事が書かれている。
この作品のためだったと思われるので、其の頃から構成があったと思われる。
そして1997年放送の聖書物語へと続く。
展覧会の絵の放映のときに、創世記と言う映画が一緒に封切りされた、その作品に、影響されたと思われる。
作画のスタッフに注目して欲しい、アニメーターではなく、漫画部のアシスタントの人たちである。
昭和43年は手塚 治虫原作のテレビアニメを放送していない時期。元来、アニメ作りをしたい、手塚治虫にとって、
アニメを作りたかった、そして、アシスタントの人たちにも、アニメの魅力を知らしめる、そんな作品。 |
創世記 |
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手塚 治虫 |
制作 演出 |
池内 辰夫 |
音響 |
鈴木 勝利 |
作画 |
下村 進 |
作画 |
鎌田 忠春 |
作画 |
小室 保孝 |
作画 |
安藤 正巳 |
作画 |
林 久男 |
作画 |
源川 富子 |
仕上 |
黒川慶二郎 |
制作進行 |
撮影部 |
撮影 |
アオイスタジオ |
音響処理 |
小林 清司 |
ナレーター |
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おまけ |
このページを作るに当たって、漫画部のアシスタント(手塚先生のお弟子さん)たちが手伝っている作品もある。
そこでその人たちを検索サイトで検索してみました。 |
下村 進さんについて ペンネーム下村風介 この名前の主人公の作品が手塚治虫の作品にある。
足跡
少年ジャンプ1969年3号
傷だらけのジル
週刊少年ジャンプ1969年20号
風の中のおれ
週刊少年ジャンプ1970年4-5号
あすに向かってつっ走れ
そしてその画の事が書かれたページを偶然見つけました。
牛久沼 銀河書房 というぺーじで ここの管理人さんがサラリーマン時代に下村さんと会ったらしい。
http://www.h6.dion.ne.jp/~u-ginga/index.html
牛久沼とは、茨城県南部にある小さな沼で私のサラリーマン時代の話をもうひとつ。
新潟に赴任する前、初めての地方転勤として福島に8年間いた。
ある日、営業担当だった私の部署に、営業嘱託社員として入社したい旨、ある男性が来社した。そのため、上司の指示により、私が彼を面接した。 当時、30代後半の私に対し、彼は40歳を少し過ぎたくらいだったと記憶している。 履歴書を見てびっくり、彼は虫プロダクションに所属したことのある、元漫画家だったのだ。つまり、手塚治虫の弟子だったのである。名前はS・Sという。 手塚ファンならご存知と思うが、数ある手塚漫画の中に「フースケ」という作品がある。この主人公「下村風介」はS・Sさんがモデルだというのだ。そういえば、目と口までの距離が異常に長い、フースケの風貌にそっくりである。S・Sさん自身も下村風介のペンネームで作品を発表していたことがあるそうだ。 手塚治虫と聞くと、飛び上がって喜んでしまう私は、面接などそっちのけで、知っている限りの、手塚に関する話をし、質問をしてみた。S・Sさんは、「よく知ってますね」と、半ば呆れ顔だった。 その後、本屋に飛び込んで、講談社の手塚治虫全集の中の「フースケ」を買い込み、本の末尾にフースケのイラストとサインをしてもらった。その本は今でも所持している。 S・Sさんとは何度も酒を飲みに行き、我が家にも来てもらい、彼の下宿にも行った。 我が家に来てもらった時は、私が所有している手塚作品のすべて、特に「火の鳥」を見てもらったら、「このシーンの背景は自分が描いた」などという発言がいくつも飛び出した。 S・Sさんの下宿におじゃましたとき、彼から「なぜだろうなぜかしら」という本を見せてくれた。これは子供向けの科学読み物で、S・Sさんが描いたものだという。内容は科学に関する文章と、お茶の水博士やウランちゃんなどのイラストである。 この本を描くのに科学に関する書物を、床から1メートルくらいの高さに手を上げて、「このくらい読まされた」と言っていた。 この本はもう一冊しか残っていないけれど、私にくれる、と言ってくれた。私はしかし、一冊しかない貴重な本ならば、私がもらうわけにはいかないと思い、酔っ払って忘れたようなふりをして帰宅してしまった。 もともと、この土地に人脈のない彼には営業は難しいかもしれないと思っていた。私と取引先を同行して回り、業務知識を教え、銀行営業もやってみたが、やはりだめだった。 営業成績目標を達成できなかった彼は、退職を余儀なくされ、会社を去った。その後、どうなったかは全くわからないままである。 「なぜだろうなぜかしら」という本は、まだ売られているそうである。
実業之日本社の発行で、
監修:星野芳郎 真船和夫
画:手塚プロダクション 下村風介
編集:安達宏治 宇川育 鳥居しげよし 松井利一 |
このような内容であった。
そのほかにも私の1967年の3月の日記のページで書いてあるとおり、編集者トイレ侵入事件にも登場する。 |
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牛久沼 銀河書房 管理人 さまに文章の掲載の許可を頂きました。 |
2004年5月31日、開店いたしました・・・棚作りにこだわるガンコオヤジの古本屋です。・・・と有ります結構お宝の本があったりするかもしれません。 店長は手塚治虫のフアンでもあります。
リンクしてありますので、是非一度見に行ってください。
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Mcsammy Jun |
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