虫プロダクションの会社案内
 昭和39年8月に作成した虫プロダクションの会社案内のパンフレットで虫プロダクションの当時を!

表紙右綴じになります。
アニメーション スタンドで撮影の写真です
裏表紙です。
西側正面玄関の写真が使われています。
P3 
玄関右の入り口右側の虫のマークの写真です。目次があります。
P2 
手塚治虫の写真と挨拶文が書かれています。
 P5
 それが終ると必要な部数をコピーします。裏表紙右の入り口左が総務と経理で右に2階への階段がありました。突き当たりのへやが備品とコピーのための部屋で総務へ依頼書を提出すると係の女性がコピーをしてくれました。夜遅くが多かったのでコピーも進行の役目になりましたが、良く紙を詰まらせたりして壊しました。ゼロックスを使用していましたが、係の人に来て貰って直すのに、半日や一日を無駄にしてしまったこともありました。
 部数は担当の進行、演出家、作画監督、原画ばらまき用(原画にはさみで頼むカットを切って渡すためのもの)仕上げ、背景、撮影、編集、音響、資料室、等が必要でした、編集、音響、資料室、には打ち合わせの時は見せ合って実際には終ったパートのを廻りました。当時でもコピーは1枚10円以上もしたので、制作としては倹約に努めました。
 ○進行はすぐに必要な動画用紙に穴を開けて準備したり、鉛筆や消しゴムなどの備品の手配をしました、カット表を作り、絵のタイトルや秒数、各々のパートの担当者や外注出しの他の進行状態が一目で分かるようにしました。
 そしてアフレコ用に原稿用紙にせりふ台本を暇を見付けて作り始めます。(本来演助の仕事でしたが殆ど私が作りました。)
 P4 
 鉄腕アトムのできるまでの説明です。
動画用紙の上に有る3つの突起して見えるのがタップで動画用紙やセルを定してずれをなくす、大切な道具です。

 P5 企画会議の様子の写真で山本さんや五十鈴さんの顔も見えます。文芸や演出家、後には演助やスケジュール管理で進行も立ち会いました手塚 治虫原作の場合は校閲と言う何の作業も出来ない無駄に時間が流れる待ち時間が大切な仕事に成りました。
シナリオやシノプシスが上がると絵コンテが作られました。
絵コンテは演出家が描きました。後には絵の描けない演出家のために絵の上図な絵コンテ専門の人が書きました。

 手塚 治虫原作の場合は絵コンテ校閲もあり時間が掛かりました。校閲が済むと絵コンテに必要な秒数をストップウォッチで計りながら秒数とコマ数を入れ必要な放送分数より少し余裕を持たせて調整ます。これは演助の仕事でしたがのちには進行も秒数入れをやりました。
P7
仕上げが上がって仕上げ検査もすんで背景も上がると撮影出しの部屋があって、撮影出し用の棚にカット袋と背景を合わせて整理して解るように入れて置きます。仕上がったセルを背景に合わせます、背景は少し大きめに書いてあってほかのカットでも兼用できる場合もありました。一番良い位置にタップ穴の位置を背景に鉛筆などで印を付けます、
カット番号が付いているので話の順番どうりに出さずにすみます。(撮影出しは演助の仕事でした。)
そろった所で演出家に見てもらって位置の修正を受けて進行が撮影に持って行きます。撮影では背景にセルのタップ位置を合わせて一コマづつ撮影します。撮影監督が絵コンテを見て適切な指示を出します。
撮影が終了すると現像に出す訳ですが、上がったフィルムを守衛室の横に必要事項を書き込み出しておくと、東洋現像所の定期便が7時位に前に出しておいたフィルムの上がりプリントの納品とフィルムの回収に来てくれました。
でもほとんどそれには間に合わず、そして即日に現像してもらうため、即日ラッシュのスタンプを押したものを、夜中の2時、3時に上がると直接東洋現像所へ進行が持ち込みました。(この間自分の仕事が無くても「そんなことは有りませんでしたが」待機しておりました。)
のちの東京現像所の合でも同様でした。
 現像の上がったフイルムを編集の人がカット番号の順番どうりにつなぎます。自分が担当した作品は大勢の人に見てもらいたいし悪いところを発見してより良い作品にしたいので、ポスターを作って各スタジオに貼ってラッシュ試写の宣伝をしました。
 試写が終わると悪いところを聞いてリテークのカット表を作り前の行程作業をします。悪いところを直して完成ラッシュ試写をして演出家のOKが出れば、音響にまわします。
音響はアフレコ、Mレコ、BGどり、などありましたが、アフレコが見ていても面白く、出来るだけ立ち会いました。(音入れなどとも言ったのでトイレに行くときによく音響室まで言ってくるなどと言いました)音響作業が終わると編集の人がネガフィルムの編集作業を終わらせます。この場合ネガは35mmフィルムでした。音ネガとネガフィルムを合わせて、現像所に持ち込みます。(このころにはスケジュールがなくなっているので、当然進行が持ち込みました。
 完成プリントが上がると前以上に宣伝して完成試写をします。そして納品すれば作業は終わりとなります。(外注の支払い伝票など実際には事務的な作業が続きますが、普通次の作品に入っています。(シリーズが終わるまでは休みの無い徹夜続きの毎日が続く訳です。
 P6
原画家が基本となる原画とタイムシートそして美術(背景)に渡す背景原画(これも演助または進行がアタリと言って色鉛筆で絵の感じを写し取って美術監督に渡しました)を描きます、カット袋の表紙に必要事項を書き込んでもらい進行が原画を回収してカット表にチェックを入れ作画監督または演出家のチェックを受けOKが出た物を動画家に回します。誰に出したかは、カット表に書き込んで外注に出すときはそのスタジオまで車で運びます。
また前に出して置いたカットを回収します。
アニメーターは静かな夜の方が仕事がはかどるので進行は朝まで走り廻る事になります。
回収した動画は担当した原画家と作画監督または演出家のチェックを受けOKが出たら、カット表を赤鉛筆で塗り潰して(私の場合)トレスに回します。
 セルなどの手配をします。パーンなどで使用する長セルは動画用紙の長さに合わせってカットして、タップの穴の位置を合わせてタップの穴開け機で穴を開けます、このような準備も全て進行の仕事でした。
この作業も社内と外注があり進行がカット表に依頼者を書いて走り回ります。トレスが終ると彩色に回します。
これも社内と外注が有りました、(外注さんの場合結婚などなされて会社をお辞めになった方が、近所の人を集めて教えながら外注をやられている方も多くいて、仕上げ用の筆や筆洗、などの備品の手配の手助けなどをさせて頂くと後で自分の外注スタッフとして協力や無理を聴いて貰える事となりました。)
彩色用絵の具の準備
彩色用絵の具は大きなビンに入って納入されます、それをフィルムケース位の小瓶に入れふたの上にマジックて色の番号を書き必要な色数と本数を準備します。これも長セル同様時間が掛かりました進行の仕事でした。
原画から美術監督に回された原画のアタリをもとに、絵コンテから美術監督が背景の指示を出します。平行して背景の作業がなされます。(虫プロ時代は背景の外注はあまりなく、進行状態の把握さえしていればよかった。)
 外注出し進行状態の確認と把握,各パートのチェック依頼に回収そして運転、雑用、すべて担当した話は一人でやります。
「これでは寝る暇がない」という事が少しはお分かりになって頂けたと思います。でもおこれで終わったわけではありません。まだまだ続きます。
 P9 
 MUSHI PURO 
スタッフの声として
入社当時雲の上の人たち、ものすごく大人に見えました。
その大先輩な人たちの、言葉が載せられています。
 P8
このページでは人形劇とアニメの銀河少年隊と
のちに大所帯となる資料室が小さく紹介されてます。
企画室では、事件となる「ナンバー7の製作準備か紹介されています。
CM課 コマーシャルフィルムを製作してとあり、のちに虫プロ商事に受け継がれ、江古田スタジオで製作されました。
 P11
のちに 虫プロ商事出版部として池袋に創立して今井常務が社長となられて。桑田常務が編集長としてCOMなどの出版物や映画作りをなさいます。
 P10
のちの虫プロ商事版権部となって 穴見常務が渋谷のセンターで活躍なさいます。
 P13
虫プロダクションの役員の紹介です、
取締役にお父様と弟の名前が見られます。知りませんんでした。
40年には手塚プロの初代社長となられる島方部長や高橋経理部長が入社されました。
撮影台の写真もあります。
1スタのうらに小屋を立て第5撮影室までできました。
そして第5スタジオにも撮影室ができ江古田スタジオには日本に1台しかないという撮影機具の部屋ができました。
 P12
虫プロダクションの会社組織図です。
ワンダースリーが終わって社長室勤務を命じられましたが。社長室って
すごい場所に位置付けられていたのですね、気が付きませんでした。
 P15
何かあると今でもこの写真が使われています。私の入る前でたしか新しく私も入った写真を41年ごろに撮った筈ですのに、いまだに見たことがありません。
 P14
1964年までの虫プロの履歴が書かれています。

 上の右側が表紙で左が裏表紙になります。
1ページ目は手塚 治虫のご挨拶が載っています。
4ページからは鉄腕アトムを例に漫画映画の出来るまでの説明が書かれています。
8ページに人形劇とアニメの合成映画、銀河少年隊の事が書かれています。




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