真佐美ジュン

            ワンダー君の初夢宇宙旅行
昭和44年  1月2日 
     NHK 新春特別カラー番組
 


 昭和43年10月13日から、第19回オリンピック・メキシコ大会が開かれていた、
  それまでサブと市捕物帖控 の進行を担当していたが、手塚先生から実写とアニメの合成映画を
  NHKの放送で正月番組としてやる、と言う話を聞いた。
 是非進行を担当させて欲しいと、願い出て担当することになった。 

 社長室にいたとき 展覧会の絵の エンディング (オーケストラ)実写部分をアニメに直したときの
杉山 卓(当時独立して卓プロを作っていた。)と組める と言うことで気心も知れていてやりやすいとも思った。


 11月中旬までは手塚治虫と脚本家の辻 真先の打ち合わせ、テーマは宇宙の果て、昔、学年誌で読み、
いくつかの説があることは知っていた、今回は、現代に戻る設定、
 脚本の校閲書き直で殆ど手塚治虫の空き時間待ちの日々だった。
(月刊誌、週刊誌、千夜一夜物語、虫プロ商事のバンパイアの校閲、出演等相変わらず
の大変なハードスケジュールであった。)
 だいたいのストリーが決まったところで、実写で使う小道具の製作注文や照明器具のレンタルの手配に
走り廻った。 幸いなるかなそれらはフジテレビ近くに(敷地内と言っても良い)有った。

 小道具とは主人公が宇宙を旅する時の乗り物で床屋の椅子に照明器具や飾り付けをした物でフジテレビの
正門の右手前に裏口のような道があり、そこに西部工芸という小道具の専門の作業場があり発注した。
 その近くに照明などのリース会社もあった。

11月20日を過ぎたところで手塚治虫の校閲が済んだ部分の作業へ入る。
実写部分のロケは清瀬旭が丘団地の制作室の池内宅で行うことになる。


11月22日の私のメモには次のように書かれていた。

 11月22日金曜日 9時前家を出て清瀬市旭が丘団地の池内宅へ行く、奥さんと子供にお会いして打ち合わせをする。
東電の東村山営業所に行く,ロケの機材の電源の位置をきめる。
11時虫プロへ戻りプロデューサーの米山等に報告 打ち合わせをする
 12時昼食後バンド練習
 虫プロのエレキバンドにベースギターとしてメンバーになっていた毎日練習していた
江古田スタジオに千夜一夜物語の絵の具を 届ける 
絵コンテ3部コピーしてNHKの今西へ届ける。フジテレビそばの、西部工芸へ実写で試用する椅子の出来上がり
具合を見に伊藤と行く、殆ど出来上がっているとのことだったが出来ておらず打ち合わせして4時帰社
手塚治虫校閲済み分の絵コンテ5部コピー5時過ぎ伊藤と卓プロへ杉山卓と作画の打ち合わせ
8時伊藤を荻窪まで送る。
12時30 仕事終了して帰宅途中、木本に出会い、志木の自宅まで送り帰宅2時。
それでも次の日の虫プロの運動会には参加している。

11月23日土曜日 晴 9時会社へ行く,長谷川で朝食,運動靴を購入,体操着に着替え電車で豊島園へ
人の集まりが悪いため1時間遅らせ10時半開会式になる。
綱引き、パン食い競争(2位)、1500mm競争、借り物競走(2位)棒倒し、騎馬戦、等に参加楽しい日を過ごした。
午後4時奈良で麻雀6時丸山宅へ場所を移り3時まで麻雀、裏から帰宅。
 虫プロには組合があった火曜会といって親睦を兼ねる会であった、メーデーの参加や秋の旅行会 運動会
冬のスキーなど楽しい思い出がたくさんあった。


11月24日日曜日10時過ぎ起床朝食後母を松本の親戚の家へ送りがてら出社、背景の絵の具を準備
斉藤と千夜一夜の先生のスケジュールの打ち合わせをする。杉山卓へ絵の具を届ける、
富岡プロデューサーからの指示で波多と一緒にストリーボードを持って富士見台駅前の手塚プロへ行く。
  このころ駅前の2階に在る喫茶店の上3階と4階が漫画部の仕事場であった。
ワンダーくんの打ち合わせを先生とした後千夜一夜の打ち合わせは雑誌の後でしたいと
のことで、波多と下の喫茶店で待つ。5時過ぎ富岡プロデューサーと変わって帰社、丸山と打ち合わせして
引き継ぎ12時帰路につく。
 ワンダーくん実写撮影の電源確保のため、東村の東京電力まで許可をもらいに行き
配電盤を渡され撮影現場の清瀬旭が丘団地の電柱に車屋根に乗って取り付ける。

 撮影に使用する照明などの機材は大容量の電気を使用するために東京電力に申請して渡された配電盤を
電源を取りやすい位置に取り付けておくと工事の人が後日電源を繋いでおいてくれた。

  12月10日火曜日 東京都府中市で 3億円強奪事件発生 仕事途中の池袋にて検問を受け帰社後事件の事を知る。
 (小金井団地の駐車場でシートにかぶせてあった犯人が逃走に使用した車が発見されたが、その駐車場は、仕上げ
外注のキララプロへ行くときに車を止めっていた駐車場だったので、驚いた事を覚えている。)

 後日談が(3億円事件)あるけれど暇が出来たら書きたいと思う。

 
12月に入ってスケジュールも迫ってきて、いよいよ合成のための実写の撮影に入った。小道具の椅子も搬入出来て
NHKのスタジオで1番大きなスタジオでの撮影となった。
NHKの1スタにて(大スタジオ)ブルーバックの主人公を吊した撮影をする
NHKで1番大きなスタジオでかなり大掛かりなセットでクレーンを使用して撮影したがそれでもガラ−ンとして
広々としたスタジオだった。

 暮れと言うことでいろんなタレントさんとすれ違ったがミーハー(死語?)な私も忙しくて脇目も触れず仕事した。
(今思えばいろんな人にサインをもらっておけば良かった。)

 クレーンを使ったりワイヤーで主人公の子を吊したり、の撮影に経験の無い事が出来ておもしろかった。 

 NHK西門の近くのふぐの料理店でNHK担当者と打ち合わせ。
NHKの担当者の人達と打ち合わせのために、NHK西口の近くのふぐ料理店で打ち合わせをした。
ふぐ料理など食べた経験もなく プロデューサーなどから”ふぐ食ったらふぐ死んじゃうぞお”と
さんざ脅かされていたので、緊張して脂汗など流しながら少しの物をこわごわ食べた事が思い出される、
 その後こんにちまでいまだに食べたことがないので今考えると、もったいなく思える 。

作画は杉山卓 と月岡 貞夫で(田無の自宅で一人で書いていた)殆ど書き終わった。
仕上げは 卓プロの奥野 りえ子(この人は男顔負けのがんばり屋で何日も徹夜しても仕上げて呉れた)
それに展覧会の絵の時の3 1/2にも手伝って貰った。
3 1/2(さんかにぶんのいちと読み半人前の3人が力を合わ仕事をする意味で付けたという)
余談このころ81/2と言う映画が流行っていた。


12月30日 NHK渋谷センターへワンダーくんの初夢宇宙旅行の完成フィルムを届ける 
 紅白歌合戦の前日とあって殺気立っていたが、結構どこにでもいけたので自由にリハーサルを見学できた。

1月元旦 明治神宮へ初詣に行く、かなり手前から賽銭を投げようとした大学生の手が顔に当たり
飛ばされためがねで目の上を切ってしまう、救護班へ警察官に抱えられ犯人のように連れて行かれたが
ワイシャツは血だらけ、作ったばかりのメガネは壊れてしまい 怪我した上に散々なめにあってしまった。
大晦日から元日にかけては国鉄の電車は終夜運転されていたので
 毎年元日には明治神宮に初詣に行っていたが それからは1度も行ってない

 1月2日 木曜日 午後6時 NHK第1チャンネルで ワンダー君の初夢宇宙旅行が放送された (20分)


年賀状の出しました、

進行下崎弘嗣になっているのは、母親が当時、姓名判断にはまっていて、
字を変えろ変えろと、うるさく言われていた事を話し、母親を喜ばせるためと、
文字を弘嗣に変えて頂いた。


2008年 やっとパイロットフィルムを発見できた、
作品の内容が明らかに出来る。

フィルムより
 ワンダー君の初夢宇宙旅行  ストーリーへ

NHKからの依頼

「ワンダーくんの初夢宇宙旅行」ついに完全版を発掘!




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