わんぱく探偵団
サブタイトル
わんぱく探偵団
1968年2月1日〜
1968年9月26日(全35話)
毎週木曜日午後
7時00〜7時30分
モノクロ22分
フジTV系で放送」
原作
江戸川 乱歩
プロデューサー
もりまさき
監督
林 重行
音響監督
田代敦己
録音
種子田文雄(東京スタジオセンター)
効果
相原 満
音楽
山下毅雄
OP主題歌
「わんぱく探偵団のうた」
作詞・壇上文雄
作曲・白木治信
演奏・MCS
歌・ボーカル・ショップ
上高田少年合唱団(朝日ソノラマ)
挿入歌
「二十面相は歌う」 歌・世良明良
話
タイトル
脚本
演出
20
黒い魔犬(後)
辻 真先
北野英明
1
二十面相登場
阿部桂一
りんたろう
21
妖怪博士
小宮 敬
出崎 統
2
生きていた死神
加藤有芳
瀬山よしふみ
22
鬼面城の秘密
阿部桂一
村野守美
3
夜光怪人
辻 真先
瀬山よしふみ
23
灰色の巨人
阿部桂一
上梨満雄
4
二十面相の復讐
加藤有芳
出崎 統
24
虎の牙
辻 真先
平田敏夫
5
悪魔島の秘密
阿部桂一
平田敏夫
25
恐怖の人形館
辻 真先
瀬山よしふみ
6
幻の鬼面城
阿部桂一
波多正美
26
地獄谷の脱出
阿部桂一
出崎 統
7
青銅の魔人
黒島 巌
勝井千賀夫
27
謎の亡霊岬
辻 真先
正廷宏三
8
謎の幽霊寺
阿部桂一
北野英明
28
白髪鬼(前)
加藤有芳
瀬山よしふみ
9
皇帝の勲章
加藤有芳
出崎 統
29
白髪鬼 (後)
加藤有芳
瀬山よしふみ
10
魔人ゴング
小宮 敬
瀬山よしふみ
30
黒とかげ暗殺団
加藤有芳
平田敏夫
11
黒猫博士
阿部桂一
平田敏夫
31
海底封鎖作戦
阿部桂一
林 政行
12
恐怖の毒蜘蛛
阿部桂一
上梨満雄
32
二十面相をあばけ
加藤有芳
上梨満雄
13
二十面相の挑戦
加藤有芳
瀬山よしふみ
29
白髪鬼 (後)
加藤有芳
瀬山よしふみ
14
蝙蝠男爵
加藤有芳
平田敏夫
30
黒とかげ暗殺団
加藤有芳
平田敏夫
15
呪いの地獄仮面
加藤有芳
北野英明
31
海底封鎖作戦
阿部桂一
林 政行
16
魔の海賊船
阿部桂一
出崎 統
32
二十面相をあばけ
加藤有芳
上梨満雄
17
天空の魔人
阿部桂一
瀬山よしふみ
33
金塊輸送作戦
加藤有芳
出崎 統
18
蝋人間の罠
加藤有芳
林 政行
34
二十面相の最後(前)
岡崎邦彦
りんたろう
19
黒い魔犬(前)
辻 真先
北野英明
35
二十面相の最後(後)
岡崎邦彦
村野守美
わんぱく探偵団へ、制作の悪がきどもが移った。
第3スタジオであった。 プロデューサーの森ちゃんと 総監督の林ちゃんを中心にして、脚本家、演出家、制作担当が、下の部屋に集まって、良く会議をした。ワンダースリーの頃住んでいた人は今は居なくなり其の部屋での会議であった。進行は岩っチャン、神田のたけぼー、 しぶやん、 善之助 、下やん、 で最初の頃は順番で担当した。同期の竹ボーは、運転免許を持っておらず運天(運を天に任す)なのでよく補佐をした。
わんぱく探偵団=江戸川 乱歩 の少年探偵団 画原作で スケジュールが立たなくなる手塚治虫を排除した、虫プロ始めての試みの作品であった。其の忌まわしい(今思えば)作品に手を染めたわけであったが、其の頃はまだ目新しい作品作りができる事に夢中で、前後を考える、余裕などなかった。ただ作品を作る事に全力を注いだ。少年探偵団は1960年11月からフジテレビで放送した、
同時に大野ゆたかさんの漫画で雑誌での連載も始まった。
漫画を見る
連続テレビドラマの時、夢中で見ていた、15歳の頃だった。探偵に興味を持った事もあった、外国映画のエミールと少年探偵団も何回も見た。其の挙句、高校生の時には、日本探偵協会なるところへ、申し込んで探偵に、なろうと思った、黄色の表紙の薄い教本が何冊も送られてきて、其の本で勉強するシステムだったと思うが、本の内容は、法律関係で面白くなく、思い描く探偵の姿とはかけ離れていて、けして格好の良い物ではなく試験を受けるところまでは、勉強しなかった。 国井ちゃんが入社してきたので、進行の仕事を教えた。岩ッチャンがみんなの推薦で、制作アシスタントとなった。
このわんぱく探偵団では、一番始めに担当の話が終わった。
虫プロでは次の話しがまだ決まっていなかった。このとき有給と代休をあわせると150日以上持っていた。と言うのは。残業代がつくのは70時間までとされた。残りは7時間で1日の代休となった。担当が始まれば睡眠時間は3時間平均。ひどい時には、全く寝ない日が続く、どうするかと言うと、眠くて仕方なくなる、車を走行中に路肩へ止める。リクライニングを倒す、同時にストンと、落ちる、気絶したように眠りこける。私はやがて遠くに潮騒の音を聞くそれがだんだん近くなり大きくなる。それが車の騒音だと気が付く。リクライニングを起こす車を走らせる。時計を見ると3分もめて仕舞っている、次に気を失うまでには1時間ぐらいある、目的の外注さんへと向かう、1度走り出すと飲み物や食べ物を買うために止める事はしない、だから帰るまで何も食べたり飲んだりしなかった。こんなだから10日もしないうちに、リミットの70時間は越えてしまい、どんどん代休が増えるばかりであった、それに、遅刻したりすると、手続きが面倒なので、休んだことにしてしまったが有給を減らすだけの効果しかなかった。
たくさんの代休と次が決まっていないと言う事で愛車で組合が借りてくれている、海の家へ行く事に決めた。 まだ自家用車を持つのは夢であった。それまで持っていたマツダの軽自動車から、古いダットサン1000という車に乗り換えた。後ろのナンバープレイトを付け替えて、スペアータイヤを取り付けるステをつけて、タイヤを後ろのトランクにつけた。クランクを使ってエンジンをかけられた、もしバッテリーが上がっても始動できる。前照灯の上下切り替スイッチは足元のフッドスイッチだった。エンジンキーとスターターボタンが別だった、トランクにスペアタイヤを付けた事は自分ではカッコイイと思った。それにも飽き足らず。左側一面に絵を描いた。竜の絵であった。図書館へ行って、日光などの竜の絵を探し、それを書き写して、長セル用の長い動画用紙に書き写して、何色ものラッカーで手書きで書いた。走ると皆が振り返る、今考えると赤面物であるが、当時は得意であった。その上トレードマークのテンガロンハットまでかぶっていた、まるでなにかの宣伝、 海の家は25日からだと言うのに20日に自宅を出た、地図を調べると春日部から16号に出るのがよさそうであった。まだ工事中で砂利道細いバイクのようなタイヤをきしませて昨年の御宿を越えて鵜原へと行く、ついた日から雨海岸に車を止め、何もせずに車中にいた、いまさら帰れない。5日間何をしていたのかは覚えていないが、待った、25日に海の家に行った。こちらの家では初めて民宿をするとのことで、お子さんの部屋が宿舎になっていた。たった一人であった。食事に何を出してよいか判らないのでとあわびがたくさん出された。現在まであんなにたくさんのあわびを食べたのは、初めて、民宿の人もその後他の民宿の人に聞いて、それ以後はそんなことはしなかった。毎日浜辺へ行ったり、理想郷の岩場をもぐったりしていた。8月になってやっと虫プロの人たちがやってくるようになった。部屋が女性用と男性用に分かれた。主となっていた私はある日民宿の奥さんに呼ばれ相談を受けた、「実は、若い人ばかりなので、おなかを空かせてはと、自分たちが食べる分もおはちに入れて出しているのだが、いつも綺麗に帰ってきてごはんつぶ一つも、残っていないので困っていると言うのである。主としては黙っていられない。男性、女性人を集めてどうゆう事かと尋ねた。何時もたくさんご飯があまるので女性人が夜食用にとみんなお結びにしていた、と言う。悪気はなかったとはいえ、民宿の奥さんの好意を、裏切る事となってしまった。知ったからには、全員で手を突いて平身低頭誤りに行った。 理想郷の岩場でモリで魚をついて取る事に夢中になっていた、カワハギなどと言う魚の名前も覚えた、朝から食事を忘れてシュノーケルを着け海に入ったまま夕方まで夢中であった、夕食の後背中に異常を感じた、見てもらうと皆が気持ち悪がる鏡で見ると無残な背中になっていた。赤を通り越して青や緑色、後でわかったのだが日火傷というらしい。 知ったかぶりの仲間が言う、「これはひどい、早く直すのには、暑いお風呂に入ることだ」と何も知らないウブな私はすっかりその言葉を信じた。裸になってお風呂に向かい湯船に肩まで浸かった。「ギャ−」人のものとも思えぬ悲鳴が星空の下に響き渡った。 それでも私は居続けた、海へは入らない日は続いたが、海辺を探索したり、理想郷へ行ったり結構楽しかったし、同期のナベ子さん、友人の佐々門くんなども来て楽しかった。虫プロは10日と25日が給料日であった。経理に電話を入れて、海の家へ来る人に持ってきてもらった。そして最後の31日まで私は海の家にいた。
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