そのごの 手塚 治虫
The Later Osamu Tezuka
그 후의 데즈카 오사무
此后 手冢治虫
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 東京都東久留米市市勢要覧
1984年 (昭和59年)1月 東京都東久留米市の市勢要覧が発行されました
 人間都市  水  緑  太陽  と歌った 小冊子で 東久留米市が発行いたしました。
その中のページ 「あすのまちを展望する」  で、手塚 治虫先生と東久留米元市長、ほか3人の方との座談会の模様です。
 スキャナーで取り込みましたが、画像を小さくすると、文字が読み取れません。 画像を、クリック 、大きな画像で、文章をお読みください。
         東久留米市企画部広報課が、約4ヶ月かかって編集、
表紙   昭和59年新年に家庭に配られました。 座談会のページは、10ページ目からです。 11ページ
12ページ 下に参加者の紹介があります。左から、富田 信男氏 手塚治虫先生 山本幸世さん 村野 建彦氏   当時の東久留米市長は 吉田 三郎氏でした。
 竹林公園 ひばりが丘団地のさくら滝山団地 16ページ目で、座談会のページは、終わりです。
最後の景色、  まだ、新青梅街道が出来ていなかった、虫プロ入社当時、青梅街道から、田無駅を過ぎの、酒屋さんの、郵便ポストが、目印で、右折して、まだ舗装されていない、このけやき並木を通り、滝山団地なども、まだなく,柳窪の分かりにくい道を、左折や右折、したりして、野火止用水沿いに、久米川の、彩色外注さんへ、通いました。
おまけ  38ページに、 笑顔の素敵な人、と言うことで、このページの、モデルに選ばれました。 そして 福祉のページには、手話講習会の様子が、
ここにも私が参加しています。
       

 昭和56年ごろ、国際障害者年 の発表があり 東久留米市でも 国際障害者年行動計画、がありました
 手話講習会に入り、聾唖協会の活動に参加し始め、地域を越え、田無、小平、東村山、東大和、清瀬、、など、そして、志木の聾唖協会の会合にまで、参加しました。 当時の東久留米聾唖協会、会長さんに連れて行かれた、その会合で、耳が聞こえるのは、私一人、その「サンド・オブ・サイレンス」の中で、一人取り残され、蚊帳の外、俗に言う「つんぼ桟敷」でした。(差別用語として使用することに、不愉快を感じる方が,居られるとは思いますが、故あって、あえて差別用語を使用いたします。)そして、会合の後、会長さんは、私に、静かに言いました。「私たちは、いつもそんな思いをしているのだよ。」 と。
 私たちの、サークルが紹介された、季刊誌、「ろうあ運動」 58年 春季号 財団法人 全日本聾唖連盟 発行
   「ろうあ運動」 58年 春季号  目は爛 爛 と輝き、激しい意見交換に熱を帯び ゲスト講師の、聾唖者の講義に、目を傾けています
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