エピソードや思い出  掲示板やメールのお答え

このページはエピソードだけでなく、質問や思い出したことなど、何でも書きたいと思います。

目  次


ともえもんさん、による掲示板データNo:467   2006年12月11日のご質問
今真佐美ジュンさんの手元にある、旧ドラのテープは何と何があるのですか?
あとリテークカットってなんですか?


ご質問では、テープとありますが、見ることの出来る映像のことだと、解釈いたします。

 16mmのフィルムで持っております。

 第9話 「おせじ鏡の巻」

 第20話 「ねがい星流れ星の巻」

 第24話 「男は力で勝負するの巻」

 第35話 「潜水艦で海へ行こうの巻」  2本

 第36話 「くるった腹時計の巻」

 第42話 「お天気ボックスの巻」

以上です。

 作業の流れで撮影は、カットごと、出来上がった順序で、撮影します。ですから、現像所から上がってくるフィルムは、ばらばらのシーンで、上がってきます。それを、絵コンテの、カット番号どおりにフィルムを切って、つないでいくのが、編集と、よばれる人です。そのフィルムは、リテークをチェックするため、スタッフ全員で試写をして見ます。そのあと、アフレコなど音響の作業をするためにも使われます。それを、「ラッシュフィルム、」とよんでいました。

リテークとは、動きが悪かったり納得できなかったりしたところを、作り直す、さごうのことです。また彩色の汚れや、セルのキスで、ハレーション(光の反射で光ってしまう)が起きているカットなども撮影しなおします。
極端な時には、一つのシーンを丸々作り直すこともあります。
ですからリテーク イコール 作り直しでした。

 ラッシュフィルムは、つなぎ目がたくさんあります。それに、フィルムに、デルマやはさみの先で傷をつけたりして印が付いています。

このフィルムも持っています。

 パイロットフィルム (番組宣伝用に作られたもの)

 第7話 「ガキ大将をやっつけろの巻」

 第8話 「ねずみに弱い猫もあるの巻き」

 それとオープニングと1回目に使用された、エンディングです。

 せれに、編集の人が、リテークで、差し替えたフィルムをつないだものが1本ありますが、内容の確認は終わっておりません。

 友人が、DVDに変換してくれました。

 上映会などで、お見せしているのは、このDVDからです。

 その友人が、オープニングのラッシュフィルムに、音を付けてくれました。音源が違うので、大変苦労して仕上てくれた、オープニングでしたが、会員だけという安易な気持ちから、ページに公開しましたが、公開から3日目にして、ほかの掲示板へ、公開されてしまい。いまは、たくさんのところで、でまわってしまいました。

その後は、ページ上での映像公開はやめて、上映会だけで公開しております。
 


ドラえもんの未発表の作品がある。

 ドラえもんが終了した後 家に遊びに来ていた人に 全くつなぎ目の無いラッシュフィルムを見せて、

実はドラえもんは本当はまだ続くはずだったので作ってしまったフイルムだと言った、

冗談と判った後もおもしろがって、他の人たちにそのフィルムを見せては騙していた、

そのことと、野球中継で一回伸びたため、一回分のフイルムが残っていると言う噂が残ってしまった。

 なぜ試用しなかったラッシュフィルムが手元に残っているのかは、不明です。

ドラえもんの色指定について。

 ドラえもんの色を決めるのに、大変苦労しました。いろいろな色を試しましたが

学年誌で藤子不二雄先生のカラーページのドラえもんが青で描かれていました。

青系をいくつか作って先生に見て選んでいただいて、ドラえもんの色は決まりました。

ほかのキャラクターも誌面で使える色はあまりなくて複雑な色は使用できませんでした

対象年齢も小学生を中心にしていましたので 色指定もなるべく絵本的にということで

原色を使うようにし中間色はあまり使わないようにしました。

鼻と首輪を赤にしましたがしっぽの先もなにか仕掛けが有るかもしれないと目立つように

赤にしました。(おなじ色でぬれると、彩色の人の作業が楽になるのも理由の一つでした)

しかしドラえもんを青くしてしまったためにドラえもんが空をとぶと空の色に溶け込んでしまい

背景に雲を入れたりして、ドラえもんが目立つように背景の人が大変苦労する事に

なってしまいました。 でも楽しかった思い出です。

 ジャイアンのお母さんは亡くなっている。

 第8話 ガキ大将をやっつけろ の中で

 ジャイアンの父親小助がジャイアンの母の遺影を

 拝んでいるシーンがあります。

 
 8話 ガキ大将をやっつけろ をご覧下さい。

  ジャイアンのお母さん

ジョージ川口さんの思い出。
日本テレビへ打ち合わせに行ったとき早くつきすぎて、時間つぶしに日本テレビの電波塔の
展望台で景色でも眺めていようと思っいエレベーターへ行来ました。たまたま乗り合わせた
人がひげを生やして手にドラムのステッキを持っていました。タレンントさんかなと思って、
軽く会釈しました。
そのころベースギターをピックを使って弾いていたのを指で弾くようになりチョッパーなる
弾き方がはやった頃で毎日練習していたため手が大変荒れていました。
その手を見てギターか何かやっているの。と聴かれたのが切っ掛けで色々話をしました。
まわりの景色の案内もしてもらいましたスティックを持っていたのでドラムのプロだなと
思っていました、その人が有名なジョージ川口さんだったと知ったのは少し後のことでした。
訃報を聞いてその時の、やさしくして頂いたジョージ川口さんのことが思い出されました。


      ドラえもんのスタッフが間違って伝わっている。

日本テレビ動画で制作されたドラえもんは最終回の日に拠点が無くなってしまいました。

当時のスタッフや状況のことを知っている者も年と共に少なくなり調べることも不可能になって

しまったと思われます。モンシェリCoCoも同じ日本テレビ動画で制作されたために、

心ない人がきちんと取材せずに、 同じスタッフだろうと最初に発表してしまったために、

その記事が唯一のデーターと言うことで誰も疑問に思わずそのまま間違って伝わってしまった。

平成16年9月日本テレビ版日本テレビ動画制作ドラえもんの研究者である き〜ぼ〜さんが

ホームページ 幻のドラえもんをたずねて(http://kiiboo.hp.infoseek.co.jp/first-dora/) を立ち上げました

大変よく研究されていて 貴重な資料も多くあります その中で 

その1 〜乏しい資料〜 の最初のページで 秋元文庫「テレビアニメ全集2」杉山 卓 著

を取り上げてあり き〜ぼ〜さんは後の旧ドラの資料は全てこの本のデータを元にしているようです。

とあとがきしてあり 、今までの疑問が解けました。


是非1度ご覧ください。  http://kiiboo.hp.infoseek.co.jp/first-dora/


ドラえもんの声が冨田耕生から野沢雅子に変わったのは
富田耕生が交通事故を起こしたためと言う噂

実はこれは私のことだと,この噂を聞いたとき,すぐ思いました。
新潟で起こした交通事故の事と、制作の責任者としての私がココを途中で降りた事がドラえもんの
制作責任者が富田耕生を降ろしたと、間違っ伝わり、それが 富田耕生は交通事故でドラえもんを
降りたになってしまった。
◎ モンシェリCoCoの時、スタジオテイクで私は制作を任されていました。正延宏三は代表者としての仕事と演出家、作画の監督と、私もスタッフ集め外注出し、スケジュールの調整にと、最初から大変忙しくて寝る暇もなくとは、こんなことを言うのでしょう。現に本当に寝てないのです。車を走らせていて、本当に眠くて危なくなると道路の脇に車を止めて、リクライニングさせる、とすぐ落ちる(ストンと寝てしまう)暫くすると、海の潮騒の音が遠く聞こえてくる、それが段々大きくなって、車が側を走り抜けて行く音だと判る、その間、5,6分しか寝てない、そしてまた走り出す、それが昼、夜関係なく続く、前にきちんと寝てから2週間ぐらいそんな日が続いて、やっと正延と私が、めどがついたそんな時、前から要請のあった新潟の作画班からの打ち合わせに、正延が行くことになった。夕方の飛行機の予約も取れたので、あとを任せて久し振りに田無のアパートへ帰った。風呂に入ってベットですぐ爆睡、女房に起こされる、「正やんから電話」 時計を見ると、まだ2時間も寝てない、「こちらでの打ち合わせが伸びて飛行機に乗れなかった」とのことであった、、後のスケジュールを考えると、今しか新潟へ行くしか無かった、正延を自分の車に乗せて一路新潟へ向かった。三国峠かな?長いトンネルを抜けて峠で食事をして一路新潟へと向かった、夜が明けて新潟市の標識まで来たときにはラッシュにぶつかってしまっった。覚えているのはここまで、正やんが身を乗り出して私の左肩を揺さぶり「危ない」と大声を上げる、目をあけると目の前にエルフがいて、ぶつかって止まる、「何で自分がこんな所に居るのか?ベットで寝ていた筈なのに」完全に爆睡していたのであった。車は対向車線をはみ出して左へ避けようとしたエルフにぶつかっていた、それだけではなかった、1台目に接触そして、2台目に接触、この時正やんは目覚め私を起こした、そして3台目エルフと正面衝突 幸いラッシュでスピードが出ていなかったので車の破損はそれほどではなかった。 しかし正やんの顔を見てびっくりルームミラーの角で、ひたいを切ってしまっていた。救急車で病院へ運ばれたが幸い大怪我ではなかった。打ち合わせをして、電車の有る内に東京へ帰った。 正やんの額の包帯が取れるのに数日かかったため、交通事故のことは、スタッフの間で評判になった。
6ヶ月の運転停止処分を受け、新潟簡易裁判所の略式命令書が最近まで取ってあった。
この事故のため ドラえもんの制作に入った当初は運転が出来なくて 西武線で田無から野方まで電車で通っていた
虫プロのスキーに行って捻挫したときの傷が痛み
ビッコを引きながら通ったつらい思いでもある
                               
↑自粛せず!!
◎ やっとスケジュールもめどがつき順調にモンシェリCoCoの制作も進みだし、日本テレビ動画から制作費の入金もあって順調に進んでいるかのように思えたある日、マンションの一室を借りて制作室としていましたが、そこの最上階を正やんが借りたと言うことが耳に入りました、その部屋は最上階にあって二階建てになっていて、かなり贅沢な部屋で、家賃もかなりの金額になりました。そりて夜遊びが始まりました。それまでも良く飲みに行きましたが、仕事には支障を来しませんでしたし、飲めない私も一緒について行って送ったりしていました。スケジュールに支障をきたさないよう一度注意しました。二度目今度は怒りました。しかし暫くすると六時になると飲みに消えてしまいました。三度目このままではスケジュールや予算面でも責任持てないから、こんな事が続くのなら、私はおりるぞ、と脅しました。が次の日、夕方六時には消えてしまいました。このままでは放送が間に合わなくなるどうするか?結果不思議なメルモであんなスケジュールでも何とかしてきた、私を見ているから安心しているのではないか、と言う結果になり、私が降ることで、危機を伝えようということにきまりました。正やん宛に置き手紙を書きました「自分は仕方なしに去る、そして新婚旅行がてら女房の田舎へ帰ると、」書き残してアパートへ帰りました。女房に訳を話し納得して貰いました。その夜は夜明けまで電話が鳴りっぱなしでしたが、とうとう電話には出ませんでした。
そのあとなんとか1クールだけ放送出来たよと聴きましたが 放送を見ることが出来ませんでした。
以上の事件?がありまして、モンシェリCoCoのプロデューサーが交通事故を起こしたため辞めたと言う噂がたちました。そして今度は交通事故でモンシェリCoCoを辞めたプロデューサーが富田耕生を降ろした。と言う噂になり、いつのまにか交通事故で富田耕生が降りたに変わってしまいました。
 その後、正延宏三とは 昔以上の親友として付き合っています。この時は、お金が彼を変えてしまったのだと思いました。名前を出したことも、彼のことだから許してくれるだろう、と思います。

  
PS 札幌の人から、最近モンシェリCoCoの映像を送って頂きました。オープニングに私の名前がでていました。制作途中で降りてしまった私の名前など、当然ないものと今まで思っておりましたが、正やんの私に対する友情が、私が、考えていた以上であったことを、知りました。そして大変うれしく思っています。
 映像を送って頂いた snowさんには、大変感謝致しております このページを利用してお礼申し上げます。

 結局富田耕生は降板したのでしょうか?
         掲示板のご質問に対するお答え。

 
ちょうど日本テレビに中間報告書を提出した頃だったと思います。裏番組が強力だったため視聴率が今ひとつでした。裏番組に人気のクイズ番組とアニメとがあり、クイズ番組が大人の視聴率を取っていて子供の視聴率をドラえもんと、裏番組のアニメとで分け合う結果となりましたが、相手と比べると、小学生向けの原作で作ったドラえもんは、対象年齢が低かった事もあり、視聴率がアニメにしては低く苦戦しました。どうすれば視聴率がとれるかと言うことで、会議を重ねて今後の事を話し合いました。 その中でドラえもんの声がイメージと違う、声優を変えてみたら、という意見がでました。そして「今のままの声で良い」と言う意見が出なかったため、視聴率を上げる1つの方法として、声優さんを変えて見るという手が取られました。
声優さんに途中で変わってもらうと言うことは、大変失礼なことで、声優さんにはなんの落ち度もなく、一方的に交代して貰ったわけで、大変心苦しく思ったことを覚えています。ただ何のトラブルも無く、気持ちよく交代して頂けたと、報告を受け安堵いたしました。この件で最近ジョーさんに話を聞くことが出来ました、演出部としては、声優さんの(富田耕生)変更には、反対だったそうです。


 新しくドラえもんが始まって声優も 大山のぶ代 でイメージがぴったりで、これがドラえもんの声だ と思いました。作品的にも良く出来上がっていて、文句の付けようもなく、安心してドラえもんを お任せできると、その時思ったことを、思い出しました。


ドラえもんのフィルムの行方?

     掲示板のご質問に対するお答え。

答えから先に言えば、判りません。とお答えするしかありません。

テレビ局との契約では、完成した16mmフィルムを、1本納めることで契約の履行が成立するとあります。つまりテレビ局には1本しかフィルムは、納めておりません。
 虫プロや手塚プロの時は完成試写をしたフィルムを資料として保存して別の新しいフィルムを、テレビ局へ納めました。

日本テレビ動画では、現像所の試写室やスタジオゼロの編集室で完成試写をして、確認した上でそのフィルムを、テレビ局に納品しました。

次にネガフィルムの存在ですが、ドラえもんで初めて16mmカメラで撮影しました。そのためにネガフィルムは16mmフィルム缶にて保存されています。一緒に音のネガフィルムも当然保存されているはずです。

現像所の方で保管して頂いていたとしても30年も経ってしまっては、当時の担当者も当然か変わってしまって、内容の判る人はおりません。 常識的には処分されてしまっていても仕方のない事でしょう。

可能性としては、地方で再放送されていた、フィルムが管理されていて、存在すれば、また資料としてビデオ化したテープ等が(VTR)存在すれば、と思いますが、いまだ出てこなければ、もう存在しないのではないか?と 悪い方に考えてしまいます。また当時はまだ今のようなビデオテープは有りませんで。私も手塚先生から辞めるとき頂いたビデオは、オープンデッキタイプでテープも大きくて録音時間も短かったように思われました。それにモノクロでしたし、カメラで取ることが目的でテレビの録画までは思いつきませんでした。

いままでいろいろなテレビ番組で、懐かしのアニメの番組が放送されています、もしフィルムが存在するのならば、一つのスクープです、当然日テレのほうでも、探し回ったはずです、それが発見できてないのは、悪い方に考えてしまいます。 こんなに皆さんが、見てみたいと騒ぎになるとは夢にも思いませんでしたので、あまり大事にはされてなかったのではと思います。

声優さんは、 どのように決めたのですか
          
          掲示板のご質問に対するお答え。

 
音響に関しては音響の専門会社へ任せました。ドラえもんの場合はE&Mプランニングセンターでした。そこで音響監督を決めて頂いて、原作者、演出家、テレビ局の意向を聞いて、オーデションみたいなことはせず、そのイメージにあった声優さんを何人か選んでもらいます。そして、原作者の意見を中心にして、演出家、テレビ局、の人達に聴いて頂いて、そのなかから選ばれました。E&Mと青二プロの関係で他の役の声優も音響に一任しました。

{富田耕生さんは大ベテランで一流の声優さんです。虫プロのワンダースリーのブッコの役をやるはずが、忙しくて、僕に廻ってきたんだと、近石 真介さん(ワンダスリーブコ)が、虫プロ同窓会の挨拶で言っていました。}

 
〜制作側からクレームを出すことは、よほどの事が、無い限りありませんでした。〜

まさみ じゅんさんは 男の人だったのですね。

          掲示板のご質問に対するお答え。


 昭和20年10月生まれ男性です。高校生の頃、詩や作曲の時に 真佐美 行雄の名前を使っていました。
虫プロのワンダースリーで制作進行と演出助手の一人二役で担当ときに、私の名前を読める人がいなくてジュンさんと呼ばれる事が多かったので、演出助手では 真佐美 ジュンの名前を使用しました。 俳句など作っていた最初の頃は 真佐美 水無月 と書いていましたが、やりすぎと思い 真佐美 六月としました。そして作品のエンディングのタイトルでは読みやすく、真佐美 ジュン としました。最近はもっとやさしい イメージにするために、ひらがなの まさみ じゅん を使っています。またメールなどのためにMcsammyJun も使用しています。ファミリーは妻のJunkoと長男ジュンの息子、10歳年下で次男、高三の四人家族です。 
 あえて、永 六輔みたいに、中性的な言葉使いにしようと文章を書くようにしていましたので、女性と間違われたとしても、文句は言いませんよ。


 ただ名前から受けるイメージが良い方にふくらんで、素敵な人だと思われて、後で本人を見てショックを受けられると申し訳ありませんので、結婚式の招待状の絵を加工して、ドラえもん時代に付け足しました。


エンディングの絵とフィルムの絵で構図の違うのがありますが。
          掲示板のご質問に対するお答え。
良くお気づきにまりましたね。ていねいにご覧頂いてお分かりになったと感激致しました。
フィルムの方は、前半のエンディングに使用していましたが、背景用のアタリの絵(右上)でお解りのように最初の
構図では、ドラえもんは静香ちゃんと室内に居ました。タイトルを入れると、ドラえもんの顔が隠れてしまうということで。
室内のドラえもんを消して、新たにドラえもんの絵を別セルに書いてのび太の横に移動させました。

 その後は下の絵を使用しました。

日本テレビ動画の有った 中野区野方のスタジオへ行ってみました。
平成15年9月


環状七号線野方駅北口
先日(平成15年9月)30年振りに中野区野方の日本テレビ動画のスタジオが有った場所を訪ねてみた。西武線の練馬駅の方から丸山陸橋の辺りを探したがつくづく人の記憶のいい加減さを思い知らされた。
今日まで丸山陸橋の近くに有ったとばかり思っていた スタジオが、見つからない。
丸山交番にも行って見たが思い出の交番とは違っていた。 
 
しばらく探してみたが記憶とは違った場所だと気が付き、住所を調べてみる、野方一丁目は環状7号線西武新宿線のアンダーパスを潜った先の大和陸橋の側だとわかる。右側の野方駅周辺も大きく変わっていた、すこしずつ昔の記憶が蘇ってくる。野方駅の先を少し走ると大和陸橋が見えて来た。

旧野方一丁目交番
測道を入って少し先に野方一丁目交番の有った建物が見えた、今は使われていないようで近くに新しい交番が出来ていた。ここには少しの間だったが友達となったよく遊びに来たお巡りさんがいた。拳銃のことや機動隊に配属になった時の悩みを聴いてあげたこと、そして最後に彼を五反田まで送っていたことなどが思い出された。

もと五十嵐ビル
そして道なりに目を移すと有った。 昔のままそびえていた。七階建てのビル ここの四階が日本テレビ動画のスタジオだった。周りの様子はすっかり変わっていたが、ビルは健在だった。ビルの名前は変わっていた、持ち主が変わったせいだろう。実際に来てみて今までの記憶が他の作品の時の記憶とごちゃ混ぜに成っていることがわかった。
きちんと整理して資料をよく調べ直す必要性を痛感した。

右が大和陸橋
歩道側に入り口が有る、覗いて見ると正面にエレベーターがあるその右側に狭い階段がある。手前から右に広くなっている、台形の土地に立っている、部屋はかなり広かった事がわかる。
そうだ七階に高級麻雀店があった。表札をみると30年も経っているので当然違う人がはいっていた。
        時間の経過を思い知った。

            スタッフのその後
  
    チーフプロデューサー上梨 満雄
   虫プロに兄の上梨 壱也と共に入社、作画を担当するが 
   鉄腕アトムの117話 史上最大のロボット 後編 、170話 二人の王女、178話 チータン夜の冒険、
            184話 タイム戦争、191話 さすらいのロッピーで゙演出を担当
   リボンの騎士では兄の上梨 壱也と共に演出を担当する。
   このリボンの騎士で初めて出会う(このころ虫プロでは上梨兄弟として有名であった。)
   リボンの騎士の 7話  のろいの白馬、19話 魔法のペン、26話 雪の女王、31話 
             チンクと海のお姫様、  37話 サファイヤを救え などを担当
   68年のわんぱく探偵団でも一緒になり、12話 恐怖の毒蜘蛛、23話 灰色の巨人、
             32話 二十面相をあばけ などを演出する。
   ムーミンでも演出として活躍
   アンデルセン物語でまた一緒になり、9話 おやゆび姫、19話 オレの影はどこにいる、
             31話 人魚姫 あこがれの王子さま、32話 人魚姫 魔女とのちかい
             33話 人魚姫 かなしいお別れ44話 天使とみつばち、などを演出する。
   途中で私は手塚プロへ移ったのでその後の詳しいことは、良く分かりません。
   ドラえもんが終った後のことも年賀状のやり取りが有りましたが、
   私がアニメから足を洗ったのでだんだんと、疎遠になってしまいました。
    そして偶然会った時の名詞を見てびっくり ぴえろ の取締役制作担当に成っていました。
   兄の上梨 壱也 らとピエロ企画を立ち上げたとのことで制作の才能もあったんだと驚きました。
   今年(平成15年)2月の虫プロ同窓会で出逢ったとき スタジオぴえろ からはもう手を引いていて、
      ピエロもおやめになってフリーとなっておる事をお聞きしました。

  演出部      徳丸 正夫    岡迫和之     腰 繁男
             それぞれ演出家としてご活躍なされてます。

  制作部      佐々木 一雄
            仙台へ帰りました。年賀状などを頂いていましたが、段々と疎遠になってしまいました。
            増田 厚美
            愛妻一恵さんと共に厚木の自家へ帰りました年賀状をもらったりしていましたが
            アパートを引っ越してから連絡がv取れなくなりました。
            山下一郎
            環八でバイクの販売店を共同で経営していました。難しい溶接の資格を取るんだと
            張り切っていました、あれからもう四半世紀も過ぎてしまっています。
            小野 忠
            ドラえもんのあとは、 アニメ界から去りました。

  作画 仕上   それぞれ作画監督や原動画として大変ご活躍なされてます。

背景   川本 征平
                杉並アニメ振興協議会 会長として
              「さよならみどりヶ池」を制作なさいました。
            http://www.suginamianime.com/jbox/aisatsu.htm 
背景   鈴木 森繁
               
アニメの背景はスタジオジャックの 鈴木 森繁 とまで言われ 
 また 川越では鈴木 森繁 画伯としてご活躍しておりましたが    1997年 4月 6日永眠なされました。心よりお悔やみ申しあげます。
 詳しい プロフィールは  
       http://www.studiojack.com/morisige/morisigesp.html

 川越での画像は      
       http://www.heartplan.co.jp/page231.html  


                         でご覧になれます。 
 完全にページを消去されて仕舞ったので掲示板も消えてしまいました。
せっかく書きこんで頂いた掲示板も見ることが出来なくなってしまいまって悲しい思いをしましたが、 1部ですがコピーしておいたのが発見できましたので、このページにのせておきます。

私はだれでしょう さんへ
 投稿者:nym  投稿日: 9月30日(火)23時18分06秒
フイルムではなく、業務用のビデオテープか何かから放送していたとすれば・・・・
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その後のフィルム? 投稿者:私はだれでしょう  投稿日: 9月30日(火)19時14分14秒
旧ドラのフィルムは1973年9月30日に処分されたとは思えません。 旧ドラはその後再放送されました。どこで保管されていたかは謎ですが、1978年(一番最後の再放送と思われる年)頃までは、かなりの数の残っていたと思います。
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はじめまして 投稿者:りし  投稿日: 9月30日(火)16時58分31秒
はじめまして。
日本テレビ動画のドラえもんについていろいろわかりました。ほとんどの資料やフィルムもあまり残っていないのが残念です。 変な話ですが、ドラえもんのようにタイムマシンであの頃に戻って資料を持ってこれたらなんてことを考えてしまいました。 それではまた。
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 投稿者:dhygfhjんmhjg  投稿日:10月31日(金)17時11分53秒
73年のドラえもんを見れて嬉しい。
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質問 投稿者:あばら屋店長  投稿日:10月30日(木)17時52分52秒
まさみじゅんさんに質問ですが、  http://www1.plala.or.jp/meizing/midi/m-074.html のMIDIと実際の主題歌って似てますか?
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ドラえもんはこの日本テレビ版で 投稿者:アップルパイ  投稿日:10月29日(水)22時48分03秒
 知り、好きになり、そのまま藤子ファンになりました。当時小1でした。地方の者なので実際に見たのは昭和49年の秋ころで、当時はウルトラマンなどの実写ものがはやっていましたが私はこのドラえもんが大好きでほとんど欠かさず見てたと思います。そのあと再放送も期待してたのですが一度も実現しないままでした。フィルムが残っていらっしゃるとのことですが、いつの日か再放送やDVD等で再びお目にかかれる日が来ることを期待しております。
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なつかしい! 投稿者:さるび  投稿日:10月15日(水)17時49分55秒
 こんにちは、私はリアルタイムで見ていた世代です。オープニングのコンテを見て不覚にも涙し書き込みました。最後に時計の針にぶら下がっているのをかすかに覚えていただけなので、全体像が脳裏を駆け巡り記憶が蘇ったのです。私の地方では翌年の夏休みにも再放送が夕方あったので、フィルム残ってないかな?とか思ってしまいます。エンディングもおぼろげながら(確かタイムマシーンと捻じ曲がった時計があるシーンがあったような)記憶しておりますが、また何か資料があれば公開して下さい。楽しみにしております。
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うわー! 投稿者:あじ  投稿日:10月 6日(月)00時23分15秒
「旧ドラ」は74年頃に再放送で観た記憶がおぼろげながらありました。今回このような形で再会でき、感激です!!
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マナ・まいあさんへ 投稿者:まさみ じゅん  投稿日:10月 4日(土)15時56分48秒
DVD化は色々有りまして今のところ考えてはおりません。詳しい事は、メールでお名前を教えて頂ければ、お話出来ますが。
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フィルムについて 投稿者:マナ・まいあ  投稿日:10月 4日(土)08時27分33秒
まさみさん、こんにちは。はじめまして。 僕も前々から「旧ドラ」のことは耳にしていましたので、とても気になっていたんですが、今回このようなホームページにめぐりあえて、とても嬉しいです。ありがとうございます。 ところで、ラッシュフィルムや再放送用のフィルムがあるとのことですが、状態が悪いですが映らないというわけではないみたいですね。そこでお願いといっては何ですが、いつか・・いつでもいいので「旧ドラ」のDVD化はできないでしょうか?残っているだけでもいいので。 現在のドラが定着しているし口で言うほど甘いものではないでしょうが、ゼヒこの目で動いている、声を出している「旧ドラ」を一目みたいです。 ムリなことかもしれませんが、お願いします。できるかどうか言っていただけるだけでも結構ですので。
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皆さんレスありがとうございます 投稿者:私はだれでしょう  投稿日:10月 1日(水)17時16分44秒
まさみ じゅんさんへ:
お忙しいところお返事ありがとうございます。 フィルムやネガが日本テレビ動画に置いていなかったことがわかり、勉強になりました。これからもよろしくお願いします。
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フィルムの件 投稿者:まさみ じゅん  投稿日:10月 1日(水)10時36分48秒
 日本テレビのドラえもんのフイルムは一本ずつしか納品しておりません。 ですから再放送のプリントはそれを使用しているのです。30年たっているので、フィルムの状態が心配です。ご心配のフィルムやネガは日本テレビ動画には置いて有りませんでしたので燃やすことなどありません。(またフィルムはリールにまかれているので燃やせません)燃やした物は、セルの類、紙の類、木で出来ているこわれている棚などです。 燃やせない物はそれなりの業者に頼んで処分してもらいました。
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>私は誰でしょう 投稿者:匿名  投稿日: 9月30日(火)23時48分31秒
>旧ドラのフィルムは1973年9月30日に処分されたとは思えません。
少なくとも、じゅん氏の文章の中にフィルムを処分したなどという事は書いてありませんが。
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